今年の共通科目(日本近代文学おける〈動物文学〉)は受講生も少なくやや難しめのことをやっても大丈夫な雰囲気なので、……という訳でもないが、今日は社会有機体論とかドゥルーズの逃走線とか「にげちゃだめだ」発言とか「デンドロカカリヤ」とかについてしゃべったあと、三島由紀夫と東大全共闘の対決について、映画の一場面を取り出して考えた(私が)。次回は、「気のいい火山弾」大批判をやるつもり。
……授業を終えると、受講生の一人が三島由紀夫についての感想とか、村上春樹と萌えキャラの関係、安部公房の「密会」が如何にすばらしいかなどを語りに来てくれた。
やはり、こちらが〈学生の利益に向けた〉授業を構成し嘘が混じった社交辞令的な授業をやってると、こういう学生はやってこない。悲しいことに、このような学生が生じる確率は同調圧力によって非常に減少しており、高等学校までの教育現場に彼らの居場所はなくなっていると言ってよいのではなかろうか。どうもそんな妄想をかき立てるほどの雰囲気を感じる。こうした事態への責任はいずれ歴史によって審判が下るであろうが……いつまでたっても黙示録に書かれたことが起きないところをみると、希望はとりあえずなし。
世の中は「秘密保持なんとか」とかで騒然としているが、こういう法律ができるということは日本の軍国主義化というよりは、日本の社会がいよいよ市民の均質化によるセクト(言うまでもなく政治団体のことじゃない。もちろん「げのっせんしゃふと」のことでもなし)による利益分捕り合戦の様相を呈してきたことのあらわれであると思う。というか、日本の戦時下では、総力戦だ一億火の玉だどころの話ではなく、お互いに暴力を使わなければならないほど、セクトによる生き残り作戦がひどかったわけで、一番悪質なのは、「秘密」裏に行われるセクトによる自由な個人の抹殺なのである。市民社会こそがファシズムを生むという所以は、特高警察のようなものが国家の暴力としてというより市民中間層の暴力として現れたからであろうが、それは自分の都合の悪いところを「秘密保持」して他人のそれは暴きたがるという、ある種の「自由」な気分の発散として行われるのである。象牙の塔にいても分かるくらいであるが、もう現に日本はそうなっている。藤村が「破戒」で秘密を守って自由に生きるより告白して自由に生きようという道を選んだ人物を描いたのは、そんな社会のことを考えていたからじゃないかとも思うのであるが……だからこそそれが被差別問題として語るべきことだったのかが問われる必要があるのである。小説の最後に、丑松は「移動」する。既に様々な人たちが言っているように、それが何の解決にもなりそうもなかったのは言うまでもなし。