やぼはいやなり、中位なる客はあはず、帥なる男めにたまたまあへば、床に入ると、かしらから何のつやもなく、「女郎、帯とき給へ」といふ。「さてもせはしや。おふくろさまの腹に十月よくも御入りましました」などいうて、すこしは子細らしく持つてまゐれば、この男いひも果てぬに、「腹にやどるも、これからはじめての事。 神代以来、この嫌ひなる女郎はわるい物ぢゃ」と、はや仕掛けて来る。それを四の五のいへば、「むつかしい事はござらぬ。さらりといんでもらひまして、女郎かへて見ましょ」
なにか不倫?事件があると、相手の異性だけでなく本人も頭良くないみたいなキャラになってしまっているが、本人も頭脳明晰、相手が紫式部みたいだったかもしれないじゃないか。テレビでは「欲望に負ける男はだめ」みたいなことを若い女子が言うていたが、たしかに上のように野暮な男はいやなものだ。好色一代女でなくてもぶん殴りたくなる。
だいたい、日本の政治家は北村透谷を読み直した方がいいんじゃないかな。恋愛は厭世詩人の最後の砦である。
センシユアル・ウオルドを離るゝなり、吾人が肉を離れ、実を忘れ、と言ひたるもの之に外ならざるなり、然れども夜遊病患者の如く「我」を忘れて立出るものにはあらざるなり、何処までも生命の眼を以て、超自然のものを観るなり。再造せられたる生命の眼を以て。
「夜遊病患者の如く「我」を忘れて立出るもの」は詩人に任せろ。
伊藤博文や最近の札の絵になっている人の10倍ぐらい愛人がいるとか、おれのツイッターはフォロワー100万だぜとか、俺のかいた両界曼陀羅圖をみろとか威張っているような政治家はどこかにいないのか。詩人が対立しようがないではないか。中学生の頃、東大に入るひとたちは、例えば性欲を学力に転換するような化け物だと思っておりましたが、江川達也の「東京大学物語」でそれが幻想だと知りました。というのは、全くの嘘であるが、江川氏のような創作もどこか野暮なものとはなにかという観点を閑却し、性慾か学力かみたいなところがあった。で、こういうマンガまで、ナラティブの概念を存分に利用して、何かを言った気になっていたのは否めない。
庭の雌の蛙は、――雄かも知れないが、実に清潔である。このまえFMで一九六六年録音の「ピーターと狼」をやってたが、ピーターを池田秀一氏がやってた。まだ十代のシャア大佐である。実に清潔な声であった。
世は好色一代女の時代に比べて複雑になってしまった。中央集権の国民国家体制だから、――そのなかで、不平等な自由な主体が、良心的な奴隷を生産してしまうのである。政治家や芸能人もどこかしら、その不平等性を望んでいる。彼らが、客や人民の前でかれらと平等な主体であることを強いられることは、かなりの抑圧である。
ある者はずるいから、平等に安心立命しながら暴力をふるうことを考える。横関至氏が論じていたと思うが、戦時下の安全運動というのはまったく戦争と無関係どころか強力なエンジンであった。もっとも、それは戦争に限らずエンジンなのである。それは安全論者たちの保身を合理化するものでもある。下品な比喩をつかうならば、それはいってみりゃ避妊具なのだ。