★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

紫金の鉢

2024-11-10 23:28:13 | 文学


行者の輩忿氣然々として大雄殿前に到り、呼はつて曰く、「如来聴き給へ。我輩師徒、千萬の苦辛を凌ぎ、遙々と東土より来り、如来を拝して經を求むるに、阿難迦葉、我們が人事無きに因って、故意無字の白本を興へしめたり。 我們是を取歸りて何の要にかせん。如來快く兩個の和尚が罪を糺問し給へ」仏祖笑つて日く、「你們嚷ぐ事なかれ。阿難等が人事を要めんと云ひし事も、我能く是を知れり。但是此経、軽く傳ふべからず、空く求むべからず。向年、衆比丘等山を下りて、舎衛國趙長者が家に行て、此を一遍讀誦し、他は家を保ち、生者は安全、亡者は濟度したりと雖も、他們黄金白銀米粒三斗三升を討め得て還りしすら、我尚だ忒だ賤賣とす。

西遊記を読んだ者が驚くのは、ようやくお経をもらえると思ってたどり着いたところで、賄賂を要求された事態であろう。しかし、たしかにいくら苦労したからと言って簡単に答えをもらえるとおもってもらってはこまるのだ。学生にはよい教訓である。しかも、悟空がここで激怒してかめはめ波撃ったりして如来共を殲滅したりせず、ちゃんと少し妥協し、紫金の鉢をやつらに渡したうえで、お経をもらって帰るところがいいと思う。

ところで、わたしが幸福だったのは、わたくしがいた環境では研究やら文学やらが「進路」の選択として扱われたことがなかったことであった。三蔵はどうだったかわすれたが、苦労の前に内発的ではあったと思う。進路のなかに「研究者」があるような環境にいたら絶対にやってない。こういう幸福な人が、大学院に行ったときに気を付けないといけないのは、急にそれが「進路」になってしまうことなのである。だからはじめから「進路」だと思ってやってきた小山に登ろうとする奴よりも、その苦労の中で深く傷つく可能性が高い。だから、それを乗り切るためには、単に学問に夢中になっているのとは別の的な目的が必要だ。それがないと、かめはめ波を撃つか発狂するしかなくなるのである。

我々の世代から10年後ぐらいまでの世代において、ノストラダムスの流行の影響がありしかし実際は世界の破滅がこなくて、――みたいな言説がけっこう生産されるようにおもうが、ほんとにそういう風な挫折を味わった人ってどれくらいいるんだろうな。。なんか、「学生運動の挫折の記憶」と同質なものを感じる。つまりは、これは現実にはかめはめ波ではないだろうか。(わたくしが八〇年近辺生まれにどこかしら共感を感じるのは、サブカルチャーを20代後半から摂取し始めたことと関係があるとおもう。)

小山に登ろうとする連中やいろんなやつらのおかげで、のみならず、わたくしのようないまいちの頭脳のおかげで、職業研究者が、偉そうな職業になる進路を選択した人として、いまだに非難されることは多い。とくに近親者からそういうめにあっている学者達は多いであろう。かくしてルサンチマンをお互いにため込んでいるのでもはや三蔵以上に浄土は遠くなったといへよう。

だからといってあまりに紫金の鉢を配りすぎるのはよくない。最近何とか講座などで講演しても、案外面白かったですーみたいなこと言われることが多くなってきてこれはいかん。もっとわけ分からんことを言い続けなければ。質問コーナーで勝手な感想を長々という人がたくさんいてと主催者の方が歎くことも最近は多いのであるが、講演する人も大概客に分かりやすく喋ったりするから自分でもいけると思ってしまうひとが出てくるんだと思うのだ。勝手な妄想だが、2ちゃんねるとかで勝手なことを書いたことのある世代が定年を迎えてリアル空間に流れ出してる気がする。あるいは、演者のレベルがほんとうに下がっているかもしれない。そういえば、40代の頃、好き勝手喋っていたら10年間ぐらいやってたある高齢者向け講座をやんわり首になったが、基本お互いにそれでいいんだとおもうね。

もっとも、鉢をくばりながら天才はやはり天才の場合はある。わたくしはむかしから「ウエストサイドストーリー」の音楽はあまり好きではなかったのだが、最近少しスコアを読んでみたらやはり天才としか思えなかった。


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