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どんど焼きで、木の枝に色の付いたお餅を刺して、それを子どもたちが火にかざすのは、とても美しいと思う。
どんど焼きは、『徒然草』などに出てくる左義長がもとだとか言われているのであるが、よく分からない。太宰治の「人間失格」で、葉藏が「空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません」と言う重要な箇所があるが、わたくしも、小学校の中学年まであたりまで空腹感とか食欲とかがなかった記憶がある。わたくしがものを食べるように母親は多大な工夫をすることになった。それにしても、太宰の主人公は、空腹感はないけれども人間の習慣に合わせて食う努力をしたそうである。これは異常事態である。わたくしが気になるのは、葉藏の色彩感覚である。「甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込む」という箇所はもちろん、「海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉と共に、青い海を背景にして、その絢爛たる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を鏤めて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。そうして、その中学の制帽の徽章にも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。」といった箇所にも、色彩の抑圧が感じられる。