木曜日の授業では、責任とか神秘とか懺悔とか崇高などについて語っているのである。今日は、
桑島秀樹→大草原の小さな家→日本国憲法→エドモンド・バーグ→カント→ベートーベンの第9→マーラーの第2→プロコフィエフの「祝杯」→ショスタコービチの第9→吉田寛のワーグナー論→宇波彰→坂口安吾→原民喜→シュトックハウゼンの9・11発言→島木健作→志賀直哉→大江健三郎→磯村健太郎→恋空
というまるで、教科書的な授業になってしまったが、宇波彰のあたりで、「あー『懺悔道としての哲学』を語らなければー」と思いついたので、家に帰って読むつもりでいたが、ゼミで「あやかしの鼓」で頭をひねったので、すっかり忘れていた。というわけで、今読み直している。
この前「謝罪の王様」っていうのが上映されていた……が、今は関係ない。
というか、田邊元は謝る気が果たしてあるのかという……なんと、最後は、人類総懺悔を要求しておるからな……。とはいえ、田邊先生は戦時中から懺悔道を研究していたわけであって、謝る気だけは満々だったのだ。ただし、わたくしは、教育者の端くれとして、こう思う。言い訳ばかりしている人間の中には、ずっと謝っている気でいる人たちがかなりいる。特攻も真珠湾攻撃も盧溝橋事件も、何か懺悔の表現だったのかもしれないのだ。