★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

懺悔道としての帝国主義

2015-06-11 23:01:00 | 思想


木曜日の授業では、責任とか神秘とか懺悔とか崇高などについて語っているのである。今日は、

桑島秀樹→大草原の小さな家→日本国憲法→エドモンド・バーグ→カント→ベートーベンの第9→マーラーの第2→プロコフィエフの「祝杯」→ショスタコービチの第9→吉田寛のワーグナー論→宇波彰→坂口安吾→原民喜→シュトックハウゼンの9・11発言→島木健作→志賀直哉→大江健三郎→磯村健太郎→恋空

というまるで、教科書的な授業になってしまったが、宇波彰のあたりで、「あー『懺悔道としての哲学』を語らなければー」と思いついたので、家に帰って読むつもりでいたが、ゼミで「あやかしの鼓」で頭をひねったので、すっかり忘れていた。というわけで、今読み直している。

この前「謝罪の王様」っていうのが上映されていた……が、今は関係ない。

というか、田邊元は謝る気が果たしてあるのかという……なんと、最後は、人類総懺悔を要求しておるからな……。とはいえ、田邊先生は戦時中から懺悔道を研究していたわけであって、謝る気だけは満々だったのだ。ただし、わたくしは、教育者の端くれとして、こう思う。言い訳ばかりしている人間の中には、ずっと謝っている気でいる人たちがかなりいる。特攻も真珠湾攻撃も盧溝橋事件も、何か懺悔の表現だったのかもしれないのだ。

立ちなさい 座りなさい

2015-06-11 00:25:46 | 文学
そういえば、一昨日の「負け犬天下」http://blog.goo.ne.jp/shirorinu/e/4d95c8187437ecdae513e3e848cbba17で、役に立つとか立たねえとかインポテンツかっ、などと下品な比喩を使ってしまったわけだが、この前やってた「ごめんね青春」のなかで、蜂矢先生が、授業中に、寝ている男の子を叱責する場面があった。これは今考えてみると、文学の比喩であった。

蜂矢「成田君 立って」
成田「・・・・・・」
蜂矢「どうしたの?立って教科書37ページ読んでください」
成田「ちょっと無理っす・・・」
半田「先生!」
蜂矢「何?半田君」
半田「これは疲れてる時や眠たい時に起こる男子特有の生理的現象であって成田君は悪くありません」
蜂矢「ごめん!何言ってるか全然分かんない。具合悪いの?どうして立てないの?!立ちたくないの?立ちなさい!」

成田「・・・・」(ガタンと机に×××を引っかけながら、立つ)

蜂矢「座りなさい」

……文学は、疲れてる時や眠たい時に起こる人間特有の生理的現象であって我々は悪くありません。無理に「(役)立とう」とすると、性器が机に衝突するが如きひどいことになります。