支那で現在傳はつて居る本と云ふと、宋の時に矢張り坊さんでありまして、冷齋夜話、是は能く人が知つて居る本でありますが、其の本を書いた坊さんがあります。それは洪覺範と云ふ坊さんで、其の人の書きました天廚禁臠と云ふ本がある。是も餘り人の見ない本でありますが、それに宋の時の詩の法則が書いてあります。所がそれはどれだけの役に立つかと云ふと、一方詩と云ふものは、宋の時には既に音樂に掛りませぬのです。唐の時までは音樂に掛つて、歌ふことが出來た詩が、宋の時には既に音樂に掛らぬやうになつて居る。それで其の時にありました法則と云ふものは、是は音樂に掛るだけの價値のある法則ではありませぬ。それ以前の法則と云ふものは、支那には一つも殘つて居らぬ。支那は詩の本國でありますが、唐以前並に唐の時の詩の法則を書いたものは一つも殘つて居りませぬ。所が文鏡祕府論がある爲に、それが分るのであります。
御大師様は復活する必要がない。まだ生きているからである。これが、イエスの復活論議となれば、――肉と精霊、父なる神と子イエス、それ以外の我々との面倒くさい関係を考えなくてはならない。しかし空海の場合は、まだ生きているので問題ない。というか、うまく考えたものである。ただ生きているだけではない、永遠の瞑想に入ったのだから、我々は空海とともに考えるという僥倖を常に得ればよいのだ。最近は、清水高志氏の空海論も出たことだ。それは別に空海ルネッサンスではない。空海は今でも偶像に過ぎず、我々がおこなってきた、ため池づくり、うどんづくり、仏像づくり、いろんな営為が、我々が空海とともに考えてきたことであり、まあ他己(自己以外の自己を成り立たせる自己)としての空海といおうか、そんなものでありつづけるのである。
今日は、「史上最強 空海 讃岐に舞い降りた不滅の巨人」(このタイトルは、なんですか集英社か小学館の何かなんですか)という展示を見に、県立ミュージアムにいってきた。雨なのにそこそこ混んでた。おじいさんおばあさんがたくさん来てた。もしかしたら、わたくしもその仲間なのかも知れない。最近の漢文の勉強のおかげで展示の漢文がそこそこ読めるところもあった。勉強の効果あり。一字一仏法華経序品がかわいいな。これ普通に今でも売れるのではないか。
この展示は、特に鎌倉時代以降の空海の肖像画の紹介を頑張っていた。死んだ偶像への情熱ってすごいんだなと思った。しかしこれは、「あわれな神格化の努力よ」で済ますにはすごい迫力だし、これは御大師様はまだ生きているという伝説もなんか手伝ってるんじゃないだろうか。そういえば「下妻物語」でも伝説のレディースの姉御はまだ生きている、みたいなエピソードあったな。――というより、アイドル画に命を賭けてしまっているファンの人のことを考えればよい。推しの相手を神格化しているしているわけではないからだ。一定の質のものを世界中に売りまくるグローバリズムが世界レベルの仕事をやらねばみたいなモチベーションをなくしてしまうのは当たり前である。だから、グローバリズムは駄目なのである。たぶん死んでいるが生きて居るみたいなものに向かうときに我々は精神を持つ。考えてみると、近代文学派が一時期、近代的自我を神としてがんばれたのは、自分が生きているのか死んでいるのか分からない状態にあったからである。そうすると、我々の視線は、その対象がよく見えない空間をさまよって、却って世界をよく見るようになる。
われわれは、テクノロジーに釣られて世界を見直すことが屡々であり、最近はネットやパソコンが縁的なものや自然を再考(――ひいては、仏教的なものに対する興味を生じ)させた。今度は、世界ではなく人格を感じさせるAIが相手である。つまりそれが新たなヒューマニズムみたいな形で我々を輪郭付け、また自我を巡ってめんどくさい議論が巻き起こるに違いない。問題は、AIには死がないことである。死があるものに対しては、我々は死んでいるか生きているかわからない緊張感を持つ。しかし、終わらないシステムに対してはどうなのであろう。そういえば、県立ミュージアムには讃岐の歴史をナウマン象の辺りから体験出来る常設展示があって、縄文弥生のコーナーがなかなかよくできている。兎や狸、竪穴式住居が復元されていて楽しい。
がっ、国家の成立や空海あたりになると、ほぼ現代と同じめんどくささしか感じないのであった。たぶん、人間が、終わるものではなく、永久機関としての共同体、国家を発明したからだ。こんな中では、空海がでようと仙石氏がでようと事態は変わらないように見える。――というわけで、空海が死なないのは、国家の永久機関に対抗して、人間の思考を永久化し、我々を思考に追い込むためではなかったであろうか。そういえば、空海の持ってる独鈷杵みて、どこかのおばあさんが「あれで脳天たたけるよね」って言ってたけど、まあ使い方としてほぼ当たってる。少なくとも、煩悩を攻撃しなければならぬことは絵だけでも伝わるものである。
――内藤湖南「弘法大師の文藝」
御大師様は復活する必要がない。まだ生きているからである。これが、イエスの復活論議となれば、――肉と精霊、父なる神と子イエス、それ以外の我々との面倒くさい関係を考えなくてはならない。しかし空海の場合は、まだ生きているので問題ない。というか、うまく考えたものである。ただ生きているだけではない、永遠の瞑想に入ったのだから、我々は空海とともに考えるという僥倖を常に得ればよいのだ。最近は、清水高志氏の空海論も出たことだ。それは別に空海ルネッサンスではない。空海は今でも偶像に過ぎず、我々がおこなってきた、ため池づくり、うどんづくり、仏像づくり、いろんな営為が、我々が空海とともに考えてきたことであり、まあ他己(自己以外の自己を成り立たせる自己)としての空海といおうか、そんなものでありつづけるのである。
今日は、「史上最強 空海 讃岐に舞い降りた不滅の巨人」(
この展示は、特に鎌倉時代以降の空海の肖像画の紹介を頑張っていた。死んだ偶像への情熱ってすごいんだなと思った。しかしこれは、「あわれな神格化の努力よ」で済ますにはすごい迫力だし、これは御大師様はまだ生きているという伝説もなんか手伝ってるんじゃないだろうか。そういえば「下妻物語」でも伝説のレディースの姉御はまだ生きている、みたいなエピソードあったな。――というより、アイドル画に命を賭けてしまっているファンの人のことを考えればよい。推しの相手を神格化しているしているわけではないからだ。一定の質のものを世界中に売りまくるグローバリズムが世界レベルの仕事をやらねばみたいなモチベーションをなくしてしまうのは当たり前である。だから、グローバリズムは駄目なのである。たぶん死んでいるが生きて居るみたいなものに向かうときに我々は精神を持つ。考えてみると、近代文学派が一時期、近代的自我を神としてがんばれたのは、自分が生きているのか死んでいるのか分からない状態にあったからである。そうすると、我々の視線は、その対象がよく見えない空間をさまよって、却って世界をよく見るようになる。
われわれは、テクノロジーに釣られて世界を見直すことが屡々であり、最近はネットやパソコンが縁的なものや自然を再考(――ひいては、仏教的なものに対する興味を生じ)させた。今度は、世界ではなく人格を感じさせるAIが相手である。つまりそれが新たなヒューマニズムみたいな形で我々を輪郭付け、また自我を巡ってめんどくさい議論が巻き起こるに違いない。問題は、AIには死がないことである。死があるものに対しては、我々は死んでいるか生きているかわからない緊張感を持つ。しかし、終わらないシステムに対してはどうなのであろう。そういえば、県立ミュージアムには讃岐の歴史をナウマン象の辺りから体験出来る常設展示があって、縄文弥生のコーナーがなかなかよくできている。兎や狸、竪穴式住居が復元されていて楽しい。
がっ、国家の成立や空海あたりになると、ほぼ現代と同じめんどくささしか感じないのであった。たぶん、人間が、終わるものではなく、永久機関としての共同体、国家を発明したからだ。こんな中では、空海がでようと仙石氏がでようと事態は変わらないように見える。――というわけで、空海が死なないのは、国家の永久機関に対抗して、人間の思考を永久化し、我々を思考に追い込むためではなかったであろうか。そういえば、空海の持ってる独鈷杵みて、どこかのおばあさんが「あれで脳天たたけるよね」って言ってたけど、まあ使い方としてほぼ当たってる。少なくとも、煩悩を攻撃しなければならぬことは絵だけでも伝わるものである。