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「いや、いや、お前ひとりでは解決できない。まさか、お前、死ぬ気じゃないだろうな。実に、心配になって来た。女に惚れられて、死ぬというのは、これは悲劇じゃない、喜劇だ。いや、ファース(茶番)というものだ。滑稽の極だね。誰も同情しやしない。死ぬのはやめたほうがよい。うむ、名案。すごい美人を、どこからか見つけて来てね、そのひとに事情を話し、お前の女房という形になってもらって、それを連れて、お前のその女たち一人々々を歴訪する。効果てきめん。女たちは、皆だまって引下る。どうだ、やってみないか。」
おぼれる者のワラ。田島は少し気が動いた。
――太宰治「グッド・バイ」
大雨である。木曽川で重機が流された。子どもの頃、住宅とか人が木曽川の濁流に呑まれた事件があったが、次の日に愛知で大洪水であった。行く川の流れは絶えずして、みたいな生悟りを気取っている連中は都会人である。対して、木曽人は、案外、のど元過ぎれば熱さを忘れるところがある。流れた先を知らないからだ。
最近は、流れても環流するネット社会を我々は生きている。もはや田舎者も都会人も、洗練された学者も下品な学者も一緒になって濁流のなかをぐるぐる回っている。欠点をなくそうみたいな向上心はあるから、洗濯機の中に入ったみたいなものであろうか。そのなかでは、つい事態を分析して汚れに寄り添ってみたりすると味方が来たと勘違いする人間が意外と多い。読解力というのはつい正解をもとめてしまうのが人間関係の修復的な動きに似ており、その衰弱は人間関係が融通無碍であるようなネットを経験した我々に必然的にもたらされたものである。そのぐらいは自覚していないと我々は精神的に死ぬ。
私は、海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに。(アイザック・ニュートン)
たしかに洗濯機の外部にはそんな世界もあったかもしれない。
今日は図書館で大蔵経をめくり、道元の注釈書たくさん担いできたら研究室でしばらく身心脱落していた(違う)。西谷啓治の道元論によればによれば身心脱落は悟りであり乾坤一擲の行為であり、「死んだつもりや」ることであり「活きて黄泉に横たわ」ることであるようだ。彼の文章は、言葉が、なんだか洗濯機の濁流のなかのパンツのようにねじれて数珠つなぎになってしまう。西谷は、やる気なんかが疲労ですぐ死ぬことを知らないのか。
明日も、