孟子曰、君子之澤、五世而斬、小人之澤、五世而斬。予未得爲孔子徒也。予私淑諸人也。
君子の徳の影響は五世で絶えるという。五世というのがどこはかとなくリアルである。しかし、そもそも徳の影響とはいっても、何がどのような状態で観察されたときなのかわからない。のみならず、孔子の言っていたことだって、そもそも当時からわからなかったのかもしれない。こういう倫理思想の場合、なにが核になっているのかみたいな読み方をされがちで、そうなると解釈は核を巡ってばらばらになってゆきがちである。逆に、たとえば孔子の行為こそが徳なんだといってみても、これは政治や何やらでそもそもの意図すら分からなくなりがちである。倫理や思想がほんとうらしい姿を出現させるのは、近い未来ではなく、遠い未来においてなにかの文脈によって引き出されたときである。
しかし、やはり一方で、そのひとが当時生きていた時代においてどういう奴だったかを、どうやったら問題にできるかは、わたしの長年のテーマである。作品を時代相に還元するのは一つの方法だが、それだとかえってよくわからなくなるというのが結論だ。齋藤文俊氏の『漢文訓読と近代日本語の形成』を朝から読んだが、われわれに知的環境からの自由などほとんど存在していない。にもかかわらず、できあがった文章そのものより、そういうこと書く人間がどういうやつだったかという次元は存在する。どういうやつかは全く関心がないらしいひともいるが、書いている自分は気にならないんだろうかと不思議だ。
そういえば、文化は、それを顕彰したり、展開させたりすると、よく分からなくなってしまうことも屡々である。FMの合唱の番組で、茨木のり子の合唱曲をやってたが、すごく異和感があった。この詩人の有名な詩のいくらかは案外ある意味説教調?なので、説教を合唱でやるとどんなかんじになるかというね。例えば、谷川俊太郎とはちがって、いわば、歌を拒否する詩という側面が茨木のり子にはあったと思う。