★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

お化けと万華鏡

2024-10-05 23:59:51 | 思想


しかし少なくとも信濃桜は、やゝ尋常山野のものと異なつた特色をもつて居る。どの部分までが培養愛育に基き、どれだけが始めから具はつて居る性質かはきめ兼ねるにしても、そこに選択があり一つの元木の繁殖があつて、人に助けられて広く旅行をしただけは考へられる。さうして別に他の地方を名のるものも無いとすれば、信州はやはりその故郷の一つとして、想定せられなければならぬのである。
 人間ことに年を取つた者の旅行が、是から当分は六つかしくなるとすれば、花の写生といふことが私たちには望ましくなる。植物学者の記述などは、あまりにも几帳面で、胸に描いて見ることも我々には出来ない。どうかさういふ画に力を入れてくれるやうな、三熊花癲の如き同志を得たいと思つて居る。


――柳田國男「信濃桜の話」


『表現者クライテリオン』の何年か前の記事に「信州・松本シンポジウム」というのがあり、前田一樹氏が書いていたと思う。それにしても、信州から再出発するみたいなのは、なんか明治大正時代からの伝統だな、何回か東京の知識人がそういうことを言って東京に帰っていった。柳田や折口もその類いである。わたくしもそういう気がないでもなかったが、迷走しすぎて四国に来てしまった。その点、最後まで信州にとどまった島崎藤村の父親はえらい。彼は、御嶽の麓にたくさんいるお化けたちと心中して狂ってしまったにちがいない。

そろそろ怪獣も正義の味方にあわせて、精神的な多様性をもって描き出すべきじゃないかなと思うのである。やれ、米国の象徴の反対物とかたまたま超現実主義と邂逅したとか、とにかく話が単一的ではなかろうか。いまは人間の脳が驚くほど多様であることが判明した世の中ある。バルタン星人なんか、われわれ以上に多様な脳であろう。そんなやつらがいつも「美しい地球が欲しい」とか小学生みたいなことをいっているであろうか。ゴジラも、ウルトラマンの怪獣もだいたい家畜を扱うかんじで宥めたり殺したりしてきたのがわれわれだ。宇宙人についても案外紳士扱いだ。もっとどちらもめんどくさい奴らなのではないだろうか。

そういう点でいえば、「鬼太郎夜話」今回始めて読んだがすごかった。さすが何でも知っている人=花★清輝に、この幽霊知らなかったワとか言わせた人ではある。なんというか安部公房の「カンガルーノート」の続編みたいである。

花田の公のデビューは『サンデー毎日』の探偵小説だ。探偵小説は隠れた物を探す向こう側志向である。そういえば、『日本浪曼派』というのは、当時の純文学の向こう側化の側面があると思うのだ。三島は日本浪曼派直系ではないが基本的に向こう側志向だ。本気で向こう側に言ってしまったのは冗談みたいなものだが本質的だ。公にはエンタメ志向と思われているそれは、大きな流れで表面に出てくるかそうでないかの違いがある。いかに表面にでるのか、日本人にそれを表面と思わせるためには、お化けが良い。お化けの向こう側になにかをみてくれる。

花田の孫は、アニメ原作クラッシャーとして有名な脚本家十輝氏だし、神保光大郎の息子は『花の子ルンルン』の脚本家だそうである。こういう話はたくさんある。彼らが特殊なのではない。戦後を作ったひとたちは、作家達以外でも向こう側志向であった。神谷光信氏が、マガジンハウスを作った清水達夫が花田とおなじく探偵小説出身だったと教えてくれた。花田もずっと編集者である側面があり、清水も戦時中にメディアのなかで向こう側を阻止されて苦労した。こういう気質の人たちは、自分よりも向こう側の人間に興味がある。雑誌とは、向こう側の万華鏡である。そしてこの万華鏡にうつるものが大衆である。

そういえば、コンビニに置いてある漫画や雑誌がどういう根拠でああなっているか、だれか研究しているんだとおもうが、――なんか大衆の保守性とは何かを考えさせる。保守論壇誌のかんがえるそれとも違うし、軍靴の音がみたいなものとも違う。『ゴルゴ13』がずっと置いてあるのがおもしろい。このまえ、『大東亜戦争の闇』という題で編まれてたのを読んだけど、大変勉強になったな。――てなかんじで啓蒙になっているのだ。

もっとも、それが万華鏡で有る限り、大衆を狂気に導くこともあるのは当然である。くらくらしてくるのだ。中日ドラゴンズがそろそろ優勝しないと戦後ずっと狂信的に応援していたひとたちがそろそろご高齢で下手すると、ドジャースと区別がつかなくなるかもしれないのと同様だ。長野県の南部に結構いると思われる、中日ドランゴズ+御嶽海のファンのメンタルが心配である、この調子でいけばマルクス主義から皇国主義者に転向するぐらいのことが起きかねない。

論文でも小説でも、その内容をちゃんと読めてないと、内容よりも方法を指摘して得々としてしまうのは、小学生から研究者に至るまで共通しているが、その方法が雑誌となると、「みんな一緒」という方法に飜訳されてしまう。

天王山を間違えたのかどうだか、天目山などと言う将軍も出て来た。天目山なら話にならない。実にそれは不可解な譬えであった。或る参謀将校は、この度のわが作戦は、敵の意表の外に出ず、と語った。それがそのまま新聞に出た。参謀も新聞社も、ユウモアのつもりではなかったようだ。大まじめであった。意表の外に出たなら、ころげ落ちるより他はあるまい。あまりの飛躍である。
 指導者は全部、無学であった。常識のレベルにさえ達していなかった。
         ×
 しかし彼等は脅迫した。天皇の名を騙って脅迫した。私は天皇を好きである。大好きである。しかし、一夜ひそかにその天皇を、おうらみ申した事さえあった。
         ×
 日本は無条件降伏をした。私はただ、恥ずかしかった。ものも言えないくらいに恥ずかしかった。
         ×
 天皇の悪口を言うものが激増して来た。しかし、そうなって見ると私は、これまでどんなに深く天皇を愛して来たのかを知った。私は、保守派を友人たちに宣言した。
         ×
 十歳の民主派、二十歳の共産派、三十歳の純粋派、四十歳の保守派。そうして、やはり歴史は繰り返すのであろうか。私は、歴史は繰り返してはならぬものだと思っている。
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 まったく新しい思潮の擡頭を待望する。それを言い出すには、何よりもまず、「勇気」を要する。私のいま夢想する境涯は、フランスのモラリストたちの感覚を基調とし、その倫理の儀表を天皇に置き、我等の生活は自給自足のアナキズム風の桃源である。


太宰治の終戦後の「苦悩の年鑑」である。太宰は、花田と同じく、一人で大衆をやろうとしていた。でも、彼は最後の文で「私」と「我等」を意図的に混同する。アフォリズム的な断片を束ねて「我等」という言葉で狂いかける我々を「アナキズム」から「桃源」というイメージ昇華してぶちこわしている風なレトリックである。――しかし、ここに太宰特有の媚びがあることも言うまでもない。

少なくとも太宰のような芸当が出来ないのに、グループワークで意見を集約だとかできるわけがないではないか?


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