★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

あまりに適応過剰な

2024-10-04 23:27:00 | 思想


ひとつの思想の意味を顯はにするためには、我々はただそれが如何なる行爲を産み出すに適してゐるかを決定することが必要である。行爲が我々にとつて思想の唯一つの意味である。或る思想の眞理性を決定するものは、それの論理的歸結でなくして、却てそれの實踐的歸結(practical consequence)である。事實、ひとつの事柄に關して論理的には各齊合的なる二つ以上の理論の成立の可能なことは屡あるのであつて、それらの間にあつてその如何なるものが眞理であるかはひとり實踐ばかりが裁斷し得ることである。

――三木清「唯物史観と現代の意識」


現代の風物詩と言えば、やたら反抗的にみえて過剰適応の人間である。異常な奴とは言いがたいものの、わたくしもその一人であろう。

木曜日ははじめての「現代短歌」についての授業をしたが、ニーチェの「畜群」とか「我が国は西洋文学に占拠されておる」とか町史に載って授業に適応しまくり、我ながら畜生味があってまずかった。来週から上品にゆきたいものだ。それはともかく、和歌はほんと苦手だったので、ここ三年ぐらい少しずつ予習してたが、やはりこのぐらいは準備が必要であることだ。初等教育なんかでも、習慣化してしまったとはいえ、――教材研究とかをやはり全体的になめているわな、本来もっともっとやらなきゃ授業にならないんじゃないのかな?

――というかんじで、学生への説教にまできちんと適応している。