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今日我国に於て、育英の任に当る教育家は、果して如何なる人間を造らんとしているか。予は教育の目的を五目に分けたけれども、人間を造る大体の方法としては、今いうた三種の内のいずれかを取らねばならぬ。彼らは第一の左甚五郎の如く、ただ唯々諾々として己れを造った人間に弄ばれ、その人の娯楽のために動くような人間を造るのであろうか。あるいは第二の『フランケンスタイン』の如く、ただ理窟ばかりを知った、利己主義の我利我利亡者で、親爺の手にも、先生の手にも合わぬようなものを造り、かえって自分がその者より恨まれる如き人間を養成するのであろうか。はたまた第三のファウストの如く、自分よりも一層優れて、かつ高尚なる人物を造り、世人よりも尊敬を払われ、またこれを造った人自身が敬服するような人間を造るのであろうか。
――新渡戸稲造「教育の目的」
むかしから相変わらずの二項対立が存したことがあきらかであるが、これは文章上のことで、みんないろんな手立てでなんとか子供を教育していた。最近はようやく、いや昔から、基礎的なことを教えないで話し合いばかりさせてだめじゃんみたいな意見がでてきて、常に学校に対してその非難が向けられる。教育思想のせいでもあるが、それだけではない。先生の卵の知力が落ちているので、教育実習においてグループワークとかで時間をとらないと馬脚がものすごく顕れてしまう、そして、そのこと自体を案の定忘れたいから忘れられる――そんな事情もあるのだ。当たり前のことである。
こういう単純な循環的構造を否認すると、目的や手段を洗練させればよいみたいな意見が出てくる。
最近、学者の中に実作者がまじることが多くなってきたが、これだって、文学をつくるものではなく作られたものとして扱いすぎるとどうなるか、想像しないようなタイプが多かったことも関係しているのである。が、もともと創作者側特有の、また固有の創作者の認識の浅さみたいなものもあるに決まっている訳で、だからこそはじめから相対化なんかしなくても作品だけをつぶさに観察する人間が必要だったはずなのである。
二項対立に突入する前に確認すべきことがらが目の前に常にある。
大谷くんがポストシーズンで同点本塁打をうったのでまたメディが大騒ぎしていた。考えてみると、まあ学者なんかいつもポストシーズン、論文ヤベッというかんじで「動転」して「ホーム」で錯「乱」しているから大谷と同じである。これは冗談ではなく、文字によって嵌入されているのがわれわれの現実なのである。こういうことをあまりに無視すると、成功をどのように認識するのかという議論が進まない。
吉村公三郎が岸田國士の哲学は新カント派だったとどこかで言ってた(『岸田國士の世界』)けど、マルクス主義者だってそんなかんじのレッテルでは一方であったわけである。そして、それには彼らの内面と関係があるのだ。
「日本は無条件降伏をした。私はただ、恥ずかしかった。ものも言えないくらいに恥ずかしかった。」(太宰治「苦悩の年鑑」)といった感情についてよく考えてこなかった戦争論はほんとだめだ。手足が吹き飛んだり、いろんな言い訳をすること以外に感情がある。こういうのを無視したから、対決するか逃避するのか同化するのかになってしまう。
エヴァンゲリオンの監督が「宇宙戦艦ヤマト」のリメイクをやるそうである。本歌取りいつまでやるのといえないことはないが、そもそも彼はとても保守的な人である。「宇宙戦艦ヤマト」ってこじれにこじれた好色一代男の後日談だと思うのだが、それは一番エヴァンゲリオンにおいて噴出し、だんだんと押さえられていった。