★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

二方面への抵抗の困難

2024-09-24 23:23:37 | 文学


「玄洋日報社」と筆太に書いた、真黒けな松板の看板を発見した吾輩はガッカリしてしまった。コンナ汚穢い新聞社に俺は這入るのかと思って……。
 古腐ったバラック式二階建に塗った青い安ペンキがボロボロに剥げチョロケている。四つしかない二階の窓硝子が新聞紙の膏薬だらけだ。右手に在る一間幅ぐらいの開けっ放しの入口が発送口だろう。紙屑だの縄切れだのが一パイに散らかっている。


――夢野久作「山羊髭編輯長」


メアリ・ダグラスの「汚穢と禁忌」のはじめに確かかいてあったが、穢れに関する研究テーマがじぶんの夫とか子育てと大いに関係あったと。。当然なことだけど重要である。もともと、出産と子育ては全体的に汚穢の観念に近づけられ避けられていたところが社会ではあった。いろんな差別的な閾をつくってやり過ごしていたわけだ。閾の撤廃を目的とする近代社会が、ついにその差別性に直面している。

政治も特に言説のあり方が基本的にクリーンになっている。例えば、われわれの文化の中に露払い的なものは大きかったと思うのだが、最近はそれも忘れられ、露骨にプロパガンダ的な手法がめだつな。プロパガンダはその目的に対してクリーンなのである。そうでない時代を知るふるい眼にはそれがあまりに露骨すぎるので道化に見えたりすることもあるが、そうではなく力の本体なのである。

スポーツもクリーンになった。例えば、大谷のことだ、力が衰えたら衰えたで、死球記録とか連続三振記録とかでやってくれそうな気がする、とか考えてしまうのが昭和野球脳なのである。落合や野村の家族のスキャンダル、清原の薬や病、これなんかが汚れ=禁忌ではなく、まぜたら面白いみたいな表象となっていたのが昔の「普通」の世界である。

大学の世界もそうである。研究なんかやるやつは「普通の変人」の集まりだった。汚れている奴という意味である。そういえば、研究者が雑用?まみれで息も絶え絶えみたいな当事者報告、いくつか読んだことある(昨今は、「当事者エッセイ調」というやつすら存在するようである――)、たまたまよく知っている人間が書いたものがあった。読んでみると、当事者(本人)的にはそういう考えかもしれんが、そこまで他人に尻ぬぐいさせといてその言いぐさはねえわ等等と思った。家族はさぞかし激怒したのではないか。思うに本人は、「普通の変人」ではなく「社会に圧迫される被害者」だと思っているのである。これが文章のクリーンさを生む。

学者にかぎらず、人間の言い訳能力、合理化の動機のからくりなど、――ほんと素晴らしきかな人間というかんじで、自省の対象にはなるわな、といい子ぶっている場合ではない。むろん、学者のやることは日々増えており、明らかに厭がらせみたいなものもある。しかしだからといって、ウソでまぶした抵抗者面をするのはどうなのであろう。人を道具みたいに扱うやりかたが猖獗を極めると、人間のこういう動きは止まらなくなるのもわかるが、それに対する道徳やら倫理による「抵抗」がますます強調され、それが学問や文学だみたいになることもさけられない。それはそれで言説のロボット化なのである。

大学に限らないが組織全体が信用されなくなると、そこに入って来る人間が、キャリアあっぷとか業績upをきにすること以上に、組織の業務をなにか「政治」や「抑圧」と同一視してしまうような弊害が出てくる。こういう対立は、社会性のなさを正義と過剰に変換してしまうことなど、様々な認識の歪みを伴うものである。それは不可避なのだが、それへの抵抗は、その歪みと信用されない組織への二方面の抵抗とならざるを得ない。


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