
二日の夜、よきほどの酔ごこちにて、「年来の大内住に、辺鄙の人ははたうるさくまさん。かの御わたりにては、何の中将、宰相の君などいふに添ひぶし給ふらん。今更にくくこそおぼゆれ」など戯るるに、富子即面をあげて、「古き契を忘れ給ひて、かくことなる事なき人を時めかし給ふこそ、こなたよりまして悪くあれ」といふは、姿こそかはれ、正しく真女児が声なり。聞くにあさましう、身の毛もたちて恐ろしく、只あきれまどふを、女打ちゑみて、「吾君な怪しみ給ひそ。海に誓ひ山に盟ひし事を速くわすれ給ふとも、さるべき縁にしのあれば又もあひ見奉るものを、他し人のいふことをまことしくおぼして、強の遠ざけ給はんには、恨み報ひなん。紀路の山々さばかり高くとも、君が血をもて峰より谷に灌ぎくださん。あたら御身をいたづらになし果給ひそ」といふに、只わななきにわななかれて、今やとらるべきここちに死に入りける。
バイロンはたしかどこかで「女は 美しくて甘ったるい 嘘つきだ。男はすぐにお前を 信じ込んでしまう」とかなんとか言っていた気がするが、考えてみると、雨月の作者もそうはっきり言った方がよかったのだ。上の男の何が駄目かと言えば、嫉妬かなにか知らんけれども、「何の中将、宰相の君などいふに添ひぶし給ふらん」などと軽口を叩くことである。これは「冗談」ではなく、むしろ「嘘」なのである。自分の気持ちも定かならぬ状態で昔を思い出し、蛇女との逢瀬の連想から妻の過去まで勝手に思い描いてしまう。これは一種の夢であり、この話では連想は実体化する。最初に女が男の前に現れたときも夢の続きであった。
そういえば、昨日は奇妙な夢を見た。
茨城県に忘れ物があったのでゴミを出したついでに電車に乗っていった。帰りに過去の友人とかビートルズなどと一緒に新幹線に乗ってきた。途中で温泉などにとまったりした。うちに帰ってみると家族が札束の中で寝ていて、30年ばかり経っていたのだった。風呂場でチューニングをしていたビートルズに訪ねてみると、「ここにくるまでにかなり稼いだ」という。隣の家を訪ねてみると、妻がいてシャボン玉を吹いていた。私はもう一回忘れ物をとりにいかなければならない。
こんなのに比べれば、雨月物語はただの現実の話なのである。化け物が出てこようとそれはしっかりと原因に結びつけられている。
今日は、コロナの感染者が東京で2000人を突破したり、ホワイトハウスにトランプ支持者が乱入して死者が出たというが、これもなんの不思議もない出来事である。我々の陥穽の正体は、認識できる現実だけを現実と認めるような狭さであり、出来事の内部おける現実とも夢ともつかぬ感覚を認められないだけなのである。行動というのは曖昧な気分の中で起こるのであり、理論とパッションを高めれば行動に踏み出せるというのは勘違いなのだ。科学主義の中でわれわれはそんな基本的なことも忘れてしまった。