★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

光に来ませあしひきの

2010-09-22 20:34:30 | 文学

月読みの光に来ませ あしひきの山きへなりて遠からなくに(湯原王・万葉集673)

本当は遠かったんじゃないかな……



今日も35℃……お戯れ



部屋の前の階段を

東京を行く3

2010-09-21 23:24:07 | 神社仏閣


これは富岡八幡宮です。

写真を撮った地点から左後ろの方に行くと、黄金の御神輿が飾られているのをガラス越しにみることが出来ました。

鳳凰の胸  ダイヤ7カラット
鳳凰の目  ダイヤ4カラット 1対
鳳凰の鶏冠 ルビー2,010個
狛犬の目  ダイヤ3カラット 2対
隅木の目  ダイヤ1カラット 4対
小鳥の目  ダイヤ1カラット 4対
屋根     純金24kg
その他プラチナ、銀、宝石多数使用





だ              か              ら          ?

東京を行く2

2010-09-20 20:18:36 | 旅行や帰省
朝から図書館でなんやかんやと動き回る。帰り道、地下鉄の浅草駅から地上に出てくると、アメリカ人のギャルたちが「おーまい」「いえす」「やー」とか私でも分かりそうな言葉でこの風景を指さしていた。


グローバリズムというのは、その成否に非常に容易な側面があるから危険なのだ。

現実逃避が高知を行く

2010-09-18 21:01:00 | 旅行や帰省
明日から東京の図書館に潜るので……と考えたら、もう今日はどっかいくしかあるまいということで、――高知に行きました。


横山隆一記念館に突入します



西原理恵子神展に侵入します。
西原氏の子どもの頃の写真があった。てっきり頭ぼさぼさの×民の娘を想像してたけど、ただのかわいい昭和40年代の少女だった……わたくしは本当につまらんロマン主義者だ。大学の時、はじめて彼女の漫画を読んだとき、こう思ったものだ……美人で漫画家としても売れやがって、いつかつぶしてやるぜ、まってろよ(←もはやここまでくると無理)



むかむかしながら、高知城に向かう。ご老人のカッ×ルが多い。



板垣退助、そのカッコ恥ずかしいからやめなさい。「板垣死すとも自由は死せず」って、とっくに自由も死んでるわ。



ぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです(安部公房)



ぽっぽっぽ~はとぽっぽ~



天守閣が俺に上から目線だなあ。「いつかつぶしてやるぜ、まってろよジブリ」(西原理恵子「毎週母さん」)



老人を殺す気か!



天守閣に忍び込む



侵入者は撃っていいんであろうか。





こういう写真に「いい眺めです」とかブログに書いているそこのあなた!GOTOHELL



下界に降りてちんちん電車に乗ると、目眩がする。

吉本隆明と牛丸先生

2010-09-17 23:24:20 | 文学
松岡俊吉氏の『吉本隆明論』のなかで「〈疎外と幻想〉覚書」の章はとても重要なのであるが、読んでいてなんだか錯乱してきたので、いつのまにかうとうとしてしまう。

吉本隆明というのは、結局、いろいろな意味でこちらの評論家根性を萎えさせてしまう文章を書く人である。彼について語ろうとすれば、彼のやったことについて自分でやり直さなければ、という気がしてくる。彼の文章を朦朧だとかテニヲハが狂っているといって批判する人を多く見てきたが、だいたい面白くない人が多い。吉本に比べてではなく、たとえば明晰すぎる浅田彰とかに比べて、面白くない人が多いのだ。これは興味深い。

起きてから、読みかけだった、牛丸仁先生の『夢の設計図』(信濃教育会出版部)を読み終える。高野高原(これは開田高原がモデルだね)の小学生たちと先生の話だ。登校拒否や過疎化、外国人の親などのいかにもありがちな話題を扱いながら、それを「問題」としてではなく、すぐどうにかしなければいけない現実としてえがいている。小学校の教員というのはそういう仕事だし、学校の現場というのはそういうものであろう。すぐどうにかしなければならないというのは、どういうことか──、複数の事案を同時に解かなければならないということである。牛丸先生はやはり先生なので、そこに極めて意識的である。登校拒否も過疎化も、問題行動も「解決」されることはない。それができると思っている教員は、とにかく「出来たことにする」傾向があり非常に危険である。村やクラスのなかで、なんとか気になる事柄をもたれ合わせながら少しでもみんなの苦痛を軽減するしかないのであろう。先生があとがきで人物たちのつながりが大事と言っているのは、そういう意味であって、単にコミュニケーションが大事と言っているのではない。

それゆえ、物語は、人物たちの交流だけがきちんと描かれ、生徒たちが自分の学校の将来図をえがいた「夢の設計図」自体を提示することはなかった。物語後半、そのあまりにうまくいってしまう人間関係自体が「夢」なのであり、小説自体が「夢の設計図」をなしているととれなくはない。とまれ、児童たち設計者は卒業してしまうし、彼らがつくった設計図が実現するかどうかはかなりあやしい。読者はそれを文字通り夢見るしかない。そういえば、先生の自伝的な『風景』も「風景」そのものは描かれなかった。先生のかくものは、その意味でかかれたこと以外はかかれていないリアリズムではなく、読者を、かかれてはいないところのより現実的なものや言い難い心象へ導こうとする性格がある。私が先生に小学校6年間習っているせいか、こういう性格は、実に〈教師〉を感じさせるなあ(笑)。単なる知識伝達を否定し、豊かな教師と子どもの関係を重視しようとすれば、多かれ少なかれ、教員は上記のような〈教師〉たらざるをえない。

書く側と読む側、教える側と教えられる側の非対称性はある。それを百も承知の上で、文学も教育もなぜか、その非対称性を乗り越えてしまうことがある。少なくとも、吉本隆明を読むときには、そんないい加減で決死な覚悟が必要である。

……思う、故に……あり

2010-09-16 23:08:30 | 思想
cogito, ergo sum は疑い得ないとする論者が最近眼につく。しかし、このことを自覚せよと説いたり、これを起点に学者どうしの相互理解を求めたりするのは何か変である。

少なくとも、私は、cogito, ergo sum と言えるまで自分を追いつめたことはないし、孤独になったこともないようだ。

だいたい考えようとして考えるわけではなくて、朝起きると自動的になにか考え始めている私に対して cogito, ergo sum とか改めて考えてしまうのは、あまりにナルシスティックではなかろうか(笑)

最近よく言われている「公共的」空間では、市民としての人間が、自分が考えていることだけは疑いきれない(私という「現象」はある)ので、他人という現象とコミュニケートしながらやっていくべきなのかもしれないが、そもそもそういう現象以前に思考が存在しているような気がしてならないのである。

そうすると、「そうです関係だけが存在するんですっ」と逆に振れる人がでてきそうなのだが、いちど「私」を描写しようとしてみればよいのではないか。そこにいきなり「関係」が浮かび上がってくるはずがない。

私が思う(←あ、しまった)に、ここまできてやっと文学をやる意味が出てくると思う。とはいえ、最初からこの地点にいる者はまたそれはそれで問題なのであろう。

Xファイル讃

2010-09-14 20:14:22 | 映画
前にも書いたが、テレビを買った頃みた番組や映画には思い入れがあって、ときどき観たくなる。

「Xファイル」もなぜか好きで録画をみかえすことがある。

モルダーとスカリーというFBI捜査官が、エイリアンやオカルト的な事件を捜査する話であり、彼ら自身が、UFOに誘拐されたり実験台にされたりした(らしい)。

リドリー・スコットの「エイリアン」が「風と共に去りぬ」より100倍美しいと思う私はどこかおかしいのではないだろうか。当然「エイリアン対プレデター」も映画館に見に行ってしまった。

ところで、モルダー捜査官は背が高くエリートで私と何ら共通点がないのでどうでもいい。

スカリー捜査官は美人でエリートで私と何ら共通点がないのですきである。

彼女が、きつい声で「FBIよ!両手を上げて!」と言ったときに、つい両手を挙げてしまったことがある。私がエイリアンだったら、スカリー様にすぐ捕まるであろう。

「Xファイル」が200話もつづいたのは、いろいろな理由があると思うが、其の主人公=エイリアンが最後までウルトラマンの怪獣みたいにしゃべらなかったことがよかったのである。また、でてくる「子ども」がだいたいエイリアンみたいな扱いで不気味だったこともよかった。モルダーとスカリーもエイリアンに体をいじられてるらしいからあれだが、彼ら二人以外がすべてエイリアン的な扱いを受けていたことがよかったと思うのだ。

日本のある種の話のように、敵がすぐ日本語喋りはじめて味方になり、新たな敵を集団でいじめるのがいいのか、他人はすべてがエイリアンだからと孤独に耐えるのか、どっちがいいのか……。書いていて思ったが、今の日本はどっちにも当てはまる。

ひこにゃん遂に自治体の犬に

2010-09-13 17:38:39 | 旅行や帰省
http://www.asahi.com/national/update/0909/OSK201009090079.html

「ひこにゃんファンクラブ発足へ 「納税」したら入れます」

画像は、ひこにゃんである。私の体型に似せてつくられたが如きひこにゃんであるが、このたび、自治体の人民搾×の手段として使われることが判明した。確かに国家や政治家と違ってひこにゃんは裏切ることはないからな、信用できるからなっ

手塚治虫的にいうなら、ひこにゃんも脳髄が発達した猫を改造したものだろう……手術のあとを隠すために兜をかぶせているとみなされる。

二度死んだ手塚治虫

2010-09-12 23:44:56 | 漫画など
朝から共同観念とか共同幻想について頭をひねっていたので疲れて、手塚治虫の「アヴァンチュール21」(秋田文庫)を読んだ。

脳みそが発達した兎を飼い主の少年から奪い改造して、兎人間を作る。で、人種や国やらの対立をもつ寄せ集めのメンバー(少年含む)が、その「かわいい」兎人間とともになぜか地底に潜るが、「みにくい」昆虫人間やら鬼人間たち──地底人に出会って、彼らを殺したあげく地上に逃げ帰ろうとする。その過程で「かわいい」兎人間が、「人間」になりたくて自分を犠牲にして少年を助けて死ぬ──そんな話。

唯一生き残った少年が死んだ兎人間を抱きしめる場面が上の画像。

ちなみに、この兎人間は、病気の少女に言葉を教わった





(たぶん)男である。




こういう複雑な情況で主人公格が泣いたり目を伏せたりする場面を描かせたら、手塚治虫は宇宙一。

さすが手塚治虫、機械と生物、動物と人間、かわいらしさと醜さ、正義と悪、男と女、子どもと大人、などあらゆる対立観念を用い、巧妙に組み立てている。我々はもうこんなにさまざまな対立を止揚できないのではなかろうか。カルチュラル・スタディーズもポスト・コロニアリズムもその現れである。手塚はやはり戦中派だなあ、と思う。死への近さは止揚を決断させる。

手塚の本の最後についている「読者の皆様へ」には、手塚の作品は差別的な描写があるけど、「人間愛」や「生命の尊さ」が根底にあるから許して、と書いてある。

どちらかと言えば、手塚が人間よりも兎人間とかの方を好きなのは明らかだと思うけど、よく言われているから別に今更わたくしが言うことでもなし。死に近づいた人間が、本当に人間愛や生命の尊さに目覚めたことがあったか。わたくしは、それを手塚を読んでも――疑う。

現場と改訂

2010-09-11 22:00:42 | 大学
今日は大学院の入試。

教育学部なので、現場の先生が受けにやってくる。毎年のことだが、社会人の面接の受け答えはすごく洗練されているがやや嘘を感じる。嘘を言っている訳ではないが、全体的に嘘なのである。本当は大学院に来る必要のなかったような人間は無視すべきなのだが、最近は難しくなっている。未来を真剣に考えている人間に失礼だからだ。その未来は就職のことではない。

フルトヴェングラーの交響曲第1番のCDを買ったので聴いてみたのだが、最後の部分が全然違う音楽になっていた。指揮のA・ヴァルターが変えちゃったらしい。

プロテスタンティズムの倫理への思い

2010-09-10 20:10:54 | 思想
最近「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読み直しているからか──、私はいつも「成金はさっさと滅びろ」とか言っている癖に、案外「資本主義」のエートスに充ち満ちてるのかもしれない、とときどき思うのだ。とはいえ、私自身のことはすぐはよく分からないので他人のことから考えて私に至ろうと考えている。

要するに私が考えているのは、貯金ばかりする人間を自意識過剰と感じ、ひたすら新たな経済活動に邁進する、しかも文化を愛する素朴な人間が、どのような構造の元に生ずるかということである。彼らは見た目はいけすかない感じがするが、素朴といえば素朴であり、ナルシスティックではあるが案外ヒューマニストである。私のみたところ、彼らのいけすかなさは、自分の文化的センスを本気で判定されたことのない未熟さから来るものであるのだが、これは仮説である。彼らが昔の成金と本当に違っているかもこれから明らかになって行くであろうが、とりあえず、人間としても描かれる必要があるのではなかろうか。前にもちょっと書いたかもしれないけど、近代文学はこの課題には失敗したと思う。

私は将来的に、エリヤフゴールドラットの「ザ・ゴール」とか、ああいう類の小説をきちんと批評してみたい。小説は惚れた腫れたの世界が多いので、つい研究する方も、そんなことばっかり妄想しがちなのであるが、やはり世の中「 金 」だからな。

公開授業・柳田國男・柄谷行人

2010-09-09 23:41:30 | 大学
Iさんの公開授業を坂出までみにいく。ある児童がやってきて「I先生のお父さん?」と聞かれる

柳田國男よまなきゃ、と帰りの電車で思う。

もはや日本の人文科学の伝統なのかもしれない──日本への回帰ではなく、柳田國男への回帰は。

家に帰って、柄谷行人の「隠喩としての建築」(柄谷行人集版)を読み続ける。まだこの辺りの評論には、いちいち注釈がついていないのがよい。