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その日判官と梶原と同志軍既にせんとす、梶原進み出でて、今日の先陣をば景時に賜び候へかし、判官、義経がなくばこそ、梶原、正なう候ふ、殿は大将軍にしてましまし候ふものを、判官、それ思ひも寄らず、鎌倉殿こそ大将軍よ、義経はただ軍の奉行を承つたる身なればただ和殿原と同じ事よ、とぞ宣ひける。梶原先陣を所望しかねて、天性この殿は侍の主には成り難し、とぞ呟きける、判官、日本一の烏滸の者かな、とて太刀の柄に手を懸け給へば梶原、鎌倉殿より外は主をば持ち奉らぬものを、とてこれも太刀の柄に手をかけける
遅れてきた梶原景時と義経殿は喧嘩になっていた。下々のいつもの鍔迫り合いである。志度合戦のときに、語り手は、「四国をば九郎大夫判官攻め落されぬ、九国へは入れられずただ中有の衆生とぞ見えし」と語っていたが、どうも物語の中の人たちにしても、われわれにしても「中有」に彷徨うことの恐ろしさをもっている気がする。大将軍か奉行か、どっちでもあるのだ。現場は大変だよ、先陣はジャンケンで決めようぜ、で笑って済むところだ。しかし、それを「オレの方が」「いやオレが」「お前は現場の大将だろ」「違うお前と公式には同じ奉行だ」「確かにお前は一生ボスになれねえわ」「お前はアホだ、死ねっ」――って、一体何を争っているのであろう。先陣を切るというのは、いまでいえば、先行研究や旧習をはやく攻撃した方が偉いみたいなことだ。先に行こうと遅れようと、認識も行動の意味も違うんだから、それでいいではないか。
父が気色を見て嫡子源太景季次男平次景高同三郎景家父子主従十四五人打物の鞘を外して父と一所に寄り合ひたり、判官の気色を見奉つて伊勢三郎義盛奥州佐藤四郎兵衛忠信源八広綱江田源三熊井太郎武蔵坊弁慶などいふ一人当千の兵共梶原を中に取り籠めて我討ち取らんとぞ進みける
なんだか漢字が多くて眼がちかちかしますが、もはや神社の垣に名前が何人彫られているかという争いです。名前の横に役職を書いている人すら居ますが、平家の語り手は、なんとなく義経びいきらしく、義経の部下だけ「一人当千の兵共」とか言っています。
洋服すがたに
ズボンとほれて、
袖ないおかたで苦労する。
激しい移り変わりの時を告げ顔なものは、ひとりこんな俗謡にのみかぎらない。過ぐる七年の月日はすべてのものを変えつつあった。燃えるような冒険心を抱いて江戸の征服を夢み、遠く西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑連ですら、追い追いの粋な風に吹かれては、都の女の俘虜となるものも多かった。一方には当時諷刺と諧謔とで聞こえた仮名垣魯文のような作者があって、すこぶるトボケた調子で、この世相をたくみな戯文に描き出して見せていた。多吉が半蔵にも読んで見よと言って、下座敷から持って来て貸してくれた『阿愚楽鍋』、一名牛店雑談にはこんな一節もある。
「方今の形勢では、洋学でなけりゃア、夜は明けねえヨ。」
――島崎藤村「夜明け前」
わたくしが近代文学の学徒なのは、人は唯死ぬのではなくて、上のように堕落して死ぬということを描いているからである。「平家物語」はこういう堕落はない。堕落は過程である。つまり中有である。人生と後の転生の間に中有があるのではない。人生が中有である。しかし、平家の人たちは、その空虚に耐えられない。立場がはっきりしなくなったときに悩み出す。そこが人生の出発点であるべきなのに、そこが終わりなのだ。
しかし一方で、近代の人間たちは、安倍やリベラルやわたくしがそうであるように、だらだらと「人間」面をするだけで、何者かになろうとしない。にやにやしながら矜持を語るな。