ここはどこ? 私は何処に居る? 私は居るのか、居ないのか?…
どうやら手はあるようなので、自動書記だろうと何だろうと、どうにか書けるようです…。
今やハッキリしました。こうしてブログを書くという事は、私にとって瞑想や祈りと同じ、いやそれ以上のことなのかもわかりません。
時折書いてる最中にも、気付きが与えられたり、境界が無くなってしまうという感覚になったりします。
そうなる理由はハッキリしています。意識がそれをもたらすものに向けられるからです。
勿論何時もそうなる訳じゃないですが…
昨日もちょっとした事が有って、何を書いていいか分からなくなりましたが、それは私がよく”上よりの力に捉えられてしまう”と表現していることとは微妙に違うところがあります。
これはあくまで私の感じたことから言っているのですが。
どういうことかと言うと、あの愛そのものとしか言いようのないものに、スッポリ包まれてしまう感じとはどこか違う…という事です。
昨日も昔、そうなった時全くどう在っていいかわからなくなって、ものすごく不安になったのを思い出しました。
”分離した自分など無い、自他を分ける境界など無い…それを見抜いた!” ”だから、どうした!”と、思わずつぶやきたくなってしまう理由もこんなところから来ているようです。
人にはそれぞれ感じ方、受け取り方というものが有りますが、私にはこのようなものがもたげている、という事です。
私はこのように時折飛んで行きそうになりますが、微妙に飛んで行かないのです。
神がかってしまうようで、トランスの手前どまり?です。(一線を超えてしまったら多分記憶に無いでしょう)
それは多分、”ちゃんとつながっているんだよ!”という無言のシグナル?を受けているからだと思います。
これは言い換えると”私と共にあれ!”ということでしょう。
こういう時の意識状態では、もはや意念的、行為的、随意的な企図は抑えられていますが、それでも意識の有り様によってはどこまでも境界を越えて、何かに溶けてしまう、という事も可能なのかもわかりません。
それは確かに自我が作り上げた諸々の縛りから解放されるので、ずっと、どこまでもそのように在ることに誘われていくのかも知れません。
でも私はシグナルを無視して、勝手に飛んでは行けません。ただ導き次第によってはこの限りではありません。
全ては思し召しのまま…という事です。
導きとはどういうことかと言うと、言い換えれば愛に導かれる、落ちて行くという事です。
例えば、昨日はそれに近いものでしたが、幼少の頃のような自己喪失感、無境界感に見舞われるというのは、どっかに放られっぱなしという訳で、ある意味とても危険な状態と言えます。
深い瞑想状態に陥ったままで、中々日常意識に戻らなくなってしまうという事例も私は直接見て知っています。
そこに瞑想指導者が居なかったら、どうなってたか分かりません。
”それが究極のニアヴァーナの境地だ!”という向きには”お好きにどうぞ”としか言いようがありません。
私はまだこの世にも自分自身にも未練が有るので、永遠の植物人間なんぞ今のところ後免被ります。
このようにおそらく愛につながっていなくても、所謂ワンネスの状態になることはあるでしょう。
私にはしかし、それだけで”恩寵に預かる”とは言い難いものが有ります。
私はこの矛盾と不調和に満ちた現実世界で、そこにあの愛が有るのなら、ずっと留まっていたいです。…恩寵と共にあることは何にも代え難いことですから…。
このブログはある意味自分のために書いているので、言葉は多く自分に向けられています。
そんな訳で久しぶりにカマしてみます。
”覚醒すりゃいいってもんじゃない”…
どうやら手はあるようなので、自動書記だろうと何だろうと、どうにか書けるようです…。
今やハッキリしました。こうしてブログを書くという事は、私にとって瞑想や祈りと同じ、いやそれ以上のことなのかもわかりません。
時折書いてる最中にも、気付きが与えられたり、境界が無くなってしまうという感覚になったりします。
そうなる理由はハッキリしています。意識がそれをもたらすものに向けられるからです。
勿論何時もそうなる訳じゃないですが…
昨日もちょっとした事が有って、何を書いていいか分からなくなりましたが、それは私がよく”上よりの力に捉えられてしまう”と表現していることとは微妙に違うところがあります。
これはあくまで私の感じたことから言っているのですが。
どういうことかと言うと、あの愛そのものとしか言いようのないものに、スッポリ包まれてしまう感じとはどこか違う…という事です。
昨日も昔、そうなった時全くどう在っていいかわからなくなって、ものすごく不安になったのを思い出しました。
”分離した自分など無い、自他を分ける境界など無い…それを見抜いた!” ”だから、どうした!”と、思わずつぶやきたくなってしまう理由もこんなところから来ているようです。
人にはそれぞれ感じ方、受け取り方というものが有りますが、私にはこのようなものがもたげている、という事です。
私はこのように時折飛んで行きそうになりますが、微妙に飛んで行かないのです。
神がかってしまうようで、トランスの手前どまり?です。(一線を超えてしまったら多分記憶に無いでしょう)
それは多分、”ちゃんとつながっているんだよ!”という無言のシグナル?を受けているからだと思います。
これは言い換えると”私と共にあれ!”ということでしょう。
こういう時の意識状態では、もはや意念的、行為的、随意的な企図は抑えられていますが、それでも意識の有り様によってはどこまでも境界を越えて、何かに溶けてしまう、という事も可能なのかもわかりません。
それは確かに自我が作り上げた諸々の縛りから解放されるので、ずっと、どこまでもそのように在ることに誘われていくのかも知れません。
でも私はシグナルを無視して、勝手に飛んでは行けません。ただ導き次第によってはこの限りではありません。
全ては思し召しのまま…という事です。
導きとはどういうことかと言うと、言い換えれば愛に導かれる、落ちて行くという事です。
例えば、昨日はそれに近いものでしたが、幼少の頃のような自己喪失感、無境界感に見舞われるというのは、どっかに放られっぱなしという訳で、ある意味とても危険な状態と言えます。
深い瞑想状態に陥ったままで、中々日常意識に戻らなくなってしまうという事例も私は直接見て知っています。
そこに瞑想指導者が居なかったら、どうなってたか分かりません。
”それが究極のニアヴァーナの境地だ!”という向きには”お好きにどうぞ”としか言いようがありません。
私はまだこの世にも自分自身にも未練が有るので、永遠の植物人間なんぞ今のところ後免被ります。
このようにおそらく愛につながっていなくても、所謂ワンネスの状態になることはあるでしょう。
私にはしかし、それだけで”恩寵に預かる”とは言い難いものが有ります。
私はこの矛盾と不調和に満ちた現実世界で、そこにあの愛が有るのなら、ずっと留まっていたいです。…恩寵と共にあることは何にも代え難いことですから…。
このブログはある意味自分のために書いているので、言葉は多く自分に向けられています。
そんな訳で久しぶりにカマしてみます。
”覚醒すりゃいいってもんじゃない”…