人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

愛と智

2015-07-14 21:05:06 | 哲学・思想
宗教やスピ界では愛とか気付きという言葉があふれていますね。
私も飽きるくらい使っております。
きっと読む方はもっと辟易ものでしょう?
しかし言葉の安売りはともかくとして、言葉で言い表せないものにダイレクトに触れた時、本当にそうしたものを実感される方も多かろうと思います。
愛…それは全くフィーリングを通してしか伝わりません。そして気づき…これをもたらすものは”智”なるものでしょう。
これは言うまでも無く有識的な知識のことではありません。本来的、天来的な智慧のことです。
いずれも我々の硬い縫い目がほころんだところからやってきます。
この二つは決して切り離すことが出来ません。
”智から離れた愛は盲目になる…愛から離れた智は冷たい…”
こんなイメージを巡らすことは出来ますが、実際のところそんな分離など起きようが無いだろう…
と、今の私には感じられるほど、これらは全く同じものの両面という感じがします。
大雑把な観方かも知れませんが、キリスト・イエスは愛を、ゴータマ・ブッダは智を強調していると言えるかも知れません。
正直言って今まで私はブッダの事を深く知ろうとしてきませんでした。
それはこの両者に関して、求道の初期に福音集会でカルチャーショックを受けた経緯が有るためもありますが、”イエスは実在しなかった”という極論が有ることにも増して、ブッダは伝説に彩られていて実像が見えにくいというのが理由かと思います。
そしていつの間にか先入観も出来てしまったようです。
”無だか空だか、何年も難しい修行をしなければ至り得ない境地を求めてなどしたって、人間何時”お釈迦”になるか分かったもんじゃない!”
その為もあってか私はしばしば愛に触れることについて言及しています。
それは今日のスピ界を見るにつけ、観念の上滑りというか、知的に走り過ぎていると感じているからです。
頭で分かったってしょうがないことを”ああだ、こうだ”、般若というか智が降りて来なきゃどうしようもないことが言葉でやり取りされる…
そしてどこか自己の見出した、依拠とする見解というものが、さも全てに通じた普遍の真理であるかのように語られる…
すると、当然のように”ちょっと待った!そんなこと誰が決めたんですか? 何で言い切れるのですか?”と誰かの呟きもチラホラ…やがてアンチ剥き出しの言説も生まれるに至ります。
他に何かを発信するということには、実に自戒させられるものがありますね。
ブッダの説いた無の立場とは”如何なる見解も信条も無い”というものでした。
この事に関しては何一つ難しい修行など要しません。
理解しようという気持ちさえあれば、すぐに開けてくる…閉じられた見解にすぐ風穴が生じるのがすぐさま感じられるでしょう。
しかし人間誰しも確信というものも(それが本当にそうなのかはともかく)背負ってたりするものです。
でもそれが許されている、という自覚さえあれば他者もまた許されている、という認識も持てます。
(あまり他のことに茶々なんか入れたりしないで今日は皆で反省会…)
仏教では愛というより慈悲と言われますが、私は今日の対立が対立を呼ぶ愛なき事象を見るにつけ、そこに限りない愛というものが言わずして語られているのを感じます。

コメント
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