歴史の見直し? ああ、やってますねえ…あちこちで。…なにもこのクソ暑いのに、暑い議論など吹っかけるつもりなど毛頭ありませんよ。
過去に起こったある歴史的事実の見直し…今私にもたげてきているのはそういう事じゃありません。
歴史というもの、そのものの見直しです。近い将来歴史そのものが終焉するかもわかりませんので!…
何度も書いてるように、私は歴史的なものに惹かれて生きてきました。
しかし、学校で教わる歴史の授業ほど退屈極まりないものは有りませんでした。
何年何月あんなことが起きた…誰それが生まれた、死んだ…これの羅列、一体何処が面白いんでしょう?
それも記されていることといったら、日本史といい、世界史といい政権変遷史といったものに偏っているではありませんか?
歴史的人物と言ったら、ほとんどが時の権力者です。
社会の上層部だけに歴史が有るなんてとんでもないです。
私は歴史というのは、極端な事言うようですが、畢竟精神史か文化史のようなものだと思っています。
個人といい、その集合といい人間精神の反映されない歴史などあるでしょうか?
そして、そうした人間の日常の営み、文化的なものもそこに如実に反映される…それは私自身の歴史というのがまさにそうなっているのです。
これは権力の歴史などに全く興味の無い私の偏見なのでしょうか?
このブログを通じて、この私の歴史は何度か見直されました。
それは過去に起きた事実は変わらない、しかし解釈はどのようにも変わる、ということです。
この事はしかし、単に過去の事実の見直しなんてどころじゃない、禁断の扉をも開くことにもなりかねません!
それは人生の裏側の歴史が現実世界に切り込んだことによりそうなってしまうのです。
しかし、人生の裏側には表側の歴史のような時間に制約されたような歴史は存在してません。
”時を超えて”なんていいますけど、これを言い表すのは…神がからないと一寸ムリかも知れません。
そこには過去、現在、未来は分断されてないのです。
例えば過去に思いはせている時、そこにこの超歴史的なものが働くと、それはもはや過去の回顧でなくなり、この現在が変容されうることになるのです。
この生きた歴史的なものはこの現在と切り離されていないからです。
意識がそっちにつながるスイッチは、過去だろうと未来だろうとどこにも在りますが、過去のことというのはブレることがありません。
それはまさしく現実に起こった事実だからでしょう。それがこの現実に蘇ってくるのです。
そしてアリアリと呼びさまされるものというのは、ずっと冷たく、時に残酷な運命を否応なく我々に投げかける呪わしき歴史のはざまに現れる”愛の発露”です。
私はこれなくして人生にも、人類の歴史にも何一つ意味など見出すことは出来ません。
ただそこには永遠の無機質なものの羅列があるようにしか感じられません。
あたかもだだっ広いコンクリートの壁の間に見出された、わずかな草花の営みのような発露が、その呪わしき人生を歴史を一変させてしまうことがあるのです。
”人生も人類の歴史も思われたようなものでは無かった…”
歴史は変わる…いや歴史は終わってしまうだろう…少なくとも客観的歴史と思われていたものは…
歴史の始まりは神の封じ込めに有った…我々の現前に歴史以前のものが復活するだろう…
そして愛と共に無機質な歴史に命が吹き込まれる…
ああ、何だか何かが乗り移ってしまったようです。暑いので…
過去に起こったある歴史的事実の見直し…今私にもたげてきているのはそういう事じゃありません。
歴史というもの、そのものの見直しです。近い将来歴史そのものが終焉するかもわかりませんので!…
何度も書いてるように、私は歴史的なものに惹かれて生きてきました。
しかし、学校で教わる歴史の授業ほど退屈極まりないものは有りませんでした。
何年何月あんなことが起きた…誰それが生まれた、死んだ…これの羅列、一体何処が面白いんでしょう?
それも記されていることといったら、日本史といい、世界史といい政権変遷史といったものに偏っているではありませんか?
歴史的人物と言ったら、ほとんどが時の権力者です。
社会の上層部だけに歴史が有るなんてとんでもないです。
私は歴史というのは、極端な事言うようですが、畢竟精神史か文化史のようなものだと思っています。
個人といい、その集合といい人間精神の反映されない歴史などあるでしょうか?
そして、そうした人間の日常の営み、文化的なものもそこに如実に反映される…それは私自身の歴史というのがまさにそうなっているのです。
これは権力の歴史などに全く興味の無い私の偏見なのでしょうか?
このブログを通じて、この私の歴史は何度か見直されました。
それは過去に起きた事実は変わらない、しかし解釈はどのようにも変わる、ということです。
この事はしかし、単に過去の事実の見直しなんてどころじゃない、禁断の扉をも開くことにもなりかねません!
それは人生の裏側の歴史が現実世界に切り込んだことによりそうなってしまうのです。
しかし、人生の裏側には表側の歴史のような時間に制約されたような歴史は存在してません。
”時を超えて”なんていいますけど、これを言い表すのは…神がからないと一寸ムリかも知れません。
そこには過去、現在、未来は分断されてないのです。
例えば過去に思いはせている時、そこにこの超歴史的なものが働くと、それはもはや過去の回顧でなくなり、この現在が変容されうることになるのです。
この生きた歴史的なものはこの現在と切り離されていないからです。
意識がそっちにつながるスイッチは、過去だろうと未来だろうとどこにも在りますが、過去のことというのはブレることがありません。
それはまさしく現実に起こった事実だからでしょう。それがこの現実に蘇ってくるのです。
そしてアリアリと呼びさまされるものというのは、ずっと冷たく、時に残酷な運命を否応なく我々に投げかける呪わしき歴史のはざまに現れる”愛の発露”です。
私はこれなくして人生にも、人類の歴史にも何一つ意味など見出すことは出来ません。
ただそこには永遠の無機質なものの羅列があるようにしか感じられません。
あたかもだだっ広いコンクリートの壁の間に見出された、わずかな草花の営みのような発露が、その呪わしき人生を歴史を一変させてしまうことがあるのです。
”人生も人類の歴史も思われたようなものでは無かった…”
歴史は変わる…いや歴史は終わってしまうだろう…少なくとも客観的歴史と思われていたものは…
歴史の始まりは神の封じ込めに有った…我々の現前に歴史以前のものが復活するだろう…
そして愛と共に無機質な歴史に命が吹き込まれる…
ああ、何だか何かが乗り移ってしまったようです。暑いので…