人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

逆説フランケンシュタイン

2015-07-25 14:38:34 | 雑感
本日の都心の最高気温、エッ…35度!もう何もする気ない…書くことも思い浮かばない…
非二元と言われる道は灼熱の国インドで生まれましたが、この理由は実によく分かる気がします。
何せ思考があまり働かない…体も思うように動かず、何かをやろうという意欲も失せて…
そうですね、ギラギラ太陽ばかり照っていて、自分も居るんだかどうか分かんなくなって、ただことが起きているって感じになりますかね。
そういうのは考えないからこそ生きてくるんであって、あれこれ考えだしたら多分生きるのが嫌になってきやしませんか?
欧米で注目されたという背景には、キリスト教会の押しつけがましく偏った、ドグマの垂れ流しに多くの人が飽き飽きしてしまった、という事があるのでしょう。
非二元の人たちはよく”私という幻想が無くなれば苦しみも消える”と言います。
とにかくあらゆる苦しみ、問題の元凶はこの私性にあると、まるで牧師先生が”主キリストを信じないのは罪だ!罪だ!”と触れ回っているように説き続けてます。
一体”私”が何をしたと言うんでしょうか!
それは自分の意志で造った訳でも無く、ただ物心ついた時にはここに君臨していただけです。
そうです。起こることが起きたようにそうなっていたのです。
いわば与えられたものなのであって、それ自体に一体何の問題が有るって言うのでしょうか?
確かにそれはまるでフランケンシュタインのモンスターのように、制御不能に陥ることも有ります。
私だって”コイツさえ居なけりゃよかったのに…”と思ったことも有ります。
しかし、それ以上に生きる喜びを感じた時、F博士が人造人間の手が動いた瞬間…

”Its、Alive!(生きているゾ!)”

と連呼したように、叫びたくなることしばしばです!
それはこの世に二つとない、代わりの利かない私性を通してくるものです。
私がこの世に生まれ出るにあたって、天才の脳でなく、出来損ないの脳を間違えて植えられてしまったのかもしれません。
でも私の命の御親は”厄介になって来たから始末しよう”何てとんでもないことで、何時も声なき声でささやきます”お前はそれでいい”

”私”にまつわるものから苦しみ、悩みを背負いこんじゃった人たちにとり、人生はそんなに悲しいものなのですか?
苦しみから解放されるかもわかりませんが、喜びもごっそり抜け落ちるんじゃないですか?
自由意志を持たない、ただのロボットでしたら苦しみとも喜びとも無縁で、ただことが起きてるように起きては消えて行くだけでしょう。
でも私は出来損ないの頭ながら分かっちゃた事が有ります。
”私”というのはどこから来るのか… この個的なものなのか?
いえ、それは見える個体だけが私なのではありません。それ自体が独立しては多分制御不能になるでしょう。
問題は非二元で言うように、それだけになってしまうからです。
でも、何にも無いのではありません。名前も形も無い、見えない私が居るのです。
この見えない博士ともどもが私なのです。
彼がちょいちょい顔を覗かす時、喜び、充実感といったものがもたげてくるのです。
彼は彼で形あるものを通して表に出たがっているらしいです。
いわば持ちつ持たれつの関係です。
名無しの博士が名前を持った怪物を借りて表れるのです。
こりゃあ、映画より面白い!













コメント
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