暑いです!何だか猛暑の到来と共に、一部スピ系ネット上での狂騒はどうやら急速に落ち着きつつあるようです。
昨日も誰かがコメントで書き始めると、反省の弁、弁解の弁が相次いでいました…。
何という物わかりの良さ、切り替えの早さなんでしょう!そして足並みがそろう…さすがは日本人です。
よっぽど平和じゃないと、この一連の動きは見られないでしょうね…。
Aさんの宿敵? Mさんの過去記事を少し読ませてもらいましたが、あくまで私の大雑把な印象であり、又失礼な言い方かもわかりませんが、まるで一頃のAさんが書いているみたいに感じました。
(最近のAさんは一元的に偏り気味です!)
又、一週間ばかし前、Aさんの弟子?朋友?Kさんの記事を読んでとても感銘を受けました。
そして私は改めて感じました。この人たちは自分の無知、無力さ加減をよく知ってる人たちだという事が…
多く混乱のもとになる悟りと言う言葉を使わせてもらえれば、この事に気づかされるという事が悟りじゃないでしょうか?
それは自己の力の彼方からもたらされるものです。
この事は何回でも強調したいです。
この原体験から意識が離れた時、所謂”悟り”にまつわる自我肥大に導かれかねないような様々な言説が生まれます。
いちいち取り上げませんが…
そしてつくづく思います。自称覚者ほど笑うべきものは居ない…(言うまでも無く、件の人の事じゃありません)
真相は覚者を演じている人が居るばかりだということなのでしょう。
所謂目覚めに預かる、ということはどんなダメ人間、欠陥人間にもあり得ることです。
”それにはどんな脚色も不要であり、ありのままにそうなのだ!”と声を大きくして言いたいです!
それに預かったからと言って、聖人のようにその日から道徳に厚くなったり、善良になったり、この世的に成功したり、まことしやかなご託宣をフレまわったりする必要も義務も全くありません。
一体誰が覚者なんですか?
非二元論の甘い誘惑に”ずっと目覚めてる状態”らしき境地というのが有ります。
所謂”一瞥”なんて程度のものじゃなく、もっとレベルの高い”大悟”と呼ばれる段階なんですと…これだけ聞いたらエゴが飛びつきそうです。
(ついでに言いますけど、以前はああいうのは人生に一度しか起きないもので、消えちゃうものと思い込んでいましたが、最近は細胞レベルで常に覚えられているものだと感じています)
私は実はこの誘惑に危うく陥りかけた事が有ります。これはホントに、ホントに自分でも笑える…
私は幸運にも、自分のどうしようもないバカバカしさ、抜けきれない娑婆っ気を見るにつけ、悟ることが出来ました。
”一体、私は身のほど知らずにも何のフリをしようとしているんだ!”と…
人から認められたい…尊望の眼差しで観られたい…このような誰でも分かるようなエゴの助長ばかりか、迷える人を、人類を救いたい…という一見菩薩行と思えることからでも、覚者、聖者のフリをしたがる人は昔から後を絶ちません。
こういう人たちが実は現在進行中の”目覚め”現象の真実を見えなくしていると言えます。
これは何よりも自分自身のその目覚め自体を見えなくさせてしまうのです。
何故ならば、それは全くありのままの自分にしか起きない事だからです。
昨日、私の気持ちを代弁してくれるようなコメントを見つけて嬉しくなりました。
”今回の件で、悟りも覚醒も大したことない、なんて決めつけないでほしい…”という旨のものでした。
宗教は死に絶え、スピ系は廃れる、教師は廃業…そして一人一人の人生の裏側開かる…
昨日も誰かがコメントで書き始めると、反省の弁、弁解の弁が相次いでいました…。
何という物わかりの良さ、切り替えの早さなんでしょう!そして足並みがそろう…さすがは日本人です。
よっぽど平和じゃないと、この一連の動きは見られないでしょうね…。
Aさんの宿敵? Mさんの過去記事を少し読ませてもらいましたが、あくまで私の大雑把な印象であり、又失礼な言い方かもわかりませんが、まるで一頃のAさんが書いているみたいに感じました。
(最近のAさんは一元的に偏り気味です!)
又、一週間ばかし前、Aさんの弟子?朋友?Kさんの記事を読んでとても感銘を受けました。
そして私は改めて感じました。この人たちは自分の無知、無力さ加減をよく知ってる人たちだという事が…
多く混乱のもとになる悟りと言う言葉を使わせてもらえれば、この事に気づかされるという事が悟りじゃないでしょうか?
それは自己の力の彼方からもたらされるものです。
この事は何回でも強調したいです。
この原体験から意識が離れた時、所謂”悟り”にまつわる自我肥大に導かれかねないような様々な言説が生まれます。
いちいち取り上げませんが…
そしてつくづく思います。自称覚者ほど笑うべきものは居ない…(言うまでも無く、件の人の事じゃありません)
真相は覚者を演じている人が居るばかりだということなのでしょう。
所謂目覚めに預かる、ということはどんなダメ人間、欠陥人間にもあり得ることです。
”それにはどんな脚色も不要であり、ありのままにそうなのだ!”と声を大きくして言いたいです!
それに預かったからと言って、聖人のようにその日から道徳に厚くなったり、善良になったり、この世的に成功したり、まことしやかなご託宣をフレまわったりする必要も義務も全くありません。
一体誰が覚者なんですか?
非二元論の甘い誘惑に”ずっと目覚めてる状態”らしき境地というのが有ります。
所謂”一瞥”なんて程度のものじゃなく、もっとレベルの高い”大悟”と呼ばれる段階なんですと…これだけ聞いたらエゴが飛びつきそうです。
(ついでに言いますけど、以前はああいうのは人生に一度しか起きないもので、消えちゃうものと思い込んでいましたが、最近は細胞レベルで常に覚えられているものだと感じています)
私は実はこの誘惑に危うく陥りかけた事が有ります。これはホントに、ホントに自分でも笑える…
私は幸運にも、自分のどうしようもないバカバカしさ、抜けきれない娑婆っ気を見るにつけ、悟ることが出来ました。
”一体、私は身のほど知らずにも何のフリをしようとしているんだ!”と…
人から認められたい…尊望の眼差しで観られたい…このような誰でも分かるようなエゴの助長ばかりか、迷える人を、人類を救いたい…という一見菩薩行と思えることからでも、覚者、聖者のフリをしたがる人は昔から後を絶ちません。
こういう人たちが実は現在進行中の”目覚め”現象の真実を見えなくしていると言えます。
これは何よりも自分自身のその目覚め自体を見えなくさせてしまうのです。
何故ならば、それは全くありのままの自分にしか起きない事だからです。
昨日、私の気持ちを代弁してくれるようなコメントを見つけて嬉しくなりました。
”今回の件で、悟りも覚醒も大したことない、なんて決めつけないでほしい…”という旨のものでした。
宗教は死に絶え、スピ系は廃れる、教師は廃業…そして一人一人の人生の裏側開かる…