人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

怪物は死なない

2015-07-22 18:49:10 | 映画・音楽など
先日、約51年ぶりにある映画を観ました。最初観た時は途中で突然恐ろしくなって、顔をひきつらせて寝込んだのでちゃんと観てませんでした。
そして今度しっかり観てるうち、何でそんなことになったのかハッキリ思い出しました。
その映画名は「大鴉」(1935)。その場面というのは、邪悪な医師(ベラ・ルゴシ)によって、顔を醜く変形させられてしまった逃亡中の犯罪者(ボリス・カーロフ)が、”ンガー”という咆哮と共にケッタイな動きを突如やり始めたのです。あの動きこそ正しく…フランケンシュタインの怪物!(この演技は多分ファン・サービスでしょう)
私はその当時、怪物恐怖症に陥っていたのでした。その少し前に映画史に残るであろうホラー「フランケンシュタイン」(1931)を観て以来…
昭和39年テレビで「ショック!」というシリーズで、古いユニバーサル映画の怪奇映画を放映していたのを前記の作品ともども観ていたのです。
”ドタッ、ドタッ”とつんのめるような歩きと共にクローズアップされた怪物の戦慄を呼ぶ容姿!これは本当に幼い私にはショックでした。「なあに一日か二日すりゃ、忘れちゃうだろ」とタカをくくっていましたが、何と三か月近くも恐怖におびえる日々が続いたのです。(これはもう、ノイローゼか?八歳にして!…こうならないためには、一心不乱にマントラを唱えるとか、なんとか思いを転換する必要があります。)
ハナ肇とクレージー・キャッツの”そのうち何とかなるだろう…”という歌をもってしてもダメです。
そして日に日に恐怖が膨らんできて、町をノソノソうろつく人、テレビに映ったパントマイム芸…あらゆるものに怪物の影が投影されました。
ある日、私はたまりかねて親父にこんなことを訴えました。「僕の頭を手術して脳ミソからあの怪物の記憶を消してほしい」と…これにはきっとF博士も魂消ることでしょう!
この恐怖との戦いの他に私にはもう一つ悩んでいたことが有ります。
それはフランケンシュタインとは博士のことなのに、何で怪物がそう呼ばれているのか?という事です。
これはしかし私のその時の悪夢のエピソードが全てを物語っています。
それを観たら誰しもその不気味な存在感に圧倒されてしまう…かくして造ったものは、造られたものによって脅かされるという、現代文明の縮図のような現象が生まれた、ということです。
そして又映画の舞台裏が又その事と不気味に重なっているのです。怪物役は当初、すでに「魔人ドラキュラ」で伯爵役でブレイクした、前記ルゴシが演る予定でしたが”セリフが無い、メーキャップがきつい”という理由でルゴシが断ったので、無名のカーロフに回ってきたのです。カーロフはその時「こういう役をやってたら役者生命も終わりかな」と周囲にもらしたそうですが、人生分からないものでこの怪物役が大当たりして、その後ずっと怪奇映画スターの名をほしいままにしました。(割を食ったのは博士を演じたニヒルな二枚目コリン・クライブで、続編「Fの花嫁」では主役は怪物カーロフに譲ることになってしまい、その後もアル中などがたたり早死にしてしまいました)
それにしても、その奇怪なおなじみとなったメーキャップもさることながら、カーロフの怪(快)演無くしてそのような神話めいた話も(私自身の人生における神話でもある)も生まれなかったでしょう。
他の俳優がやると、どうしてもロボットになってしまうのに対し、あれは人間のようで人間でない…祝福されずに生まれてきた異形人間の悲哀がにじみ出ています。数年後には私は恐怖症から一変して同情の思いを寄せるようになりました。
現代ではクローン人間のことが取り沙汰されるなど、空想では済ませられないほど現実味を帯びてきた感が有りますが、映画化される前の舞台劇では、怪物は博士の分身のような設定として描かれていたらしいです。何だか創世記の”神は人間をその形に似せて造った”という話を彷彿させて興味深いものが有ります。
ひょっとして今創造主は”人間なんて面倒な怪物造らなきゃよかった!”と思っているのでしょうか?
でも怪物は死なない、のです。風車小屋に追いやられて焼き討ちにあっても…城と共に吹っ飛んでも(Fの花嫁)…煮えたぎる硫黄の沼に落とされても(Fの復活…カーロフは三作でちょっとずつキャラ、メーキャップを変えて怪物を演じています)…何故ならばドル箱だから!
いや、そうじゃない…見えるもの無くして、見えないものは表に顕れることが出来ないから…滅んじゃったら元も子もないですから…。
コメント
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