ゴータマ・ブッダが苦行によっては悟りに至れないことを悟って、やがて菩提樹の下でついに悟道に達した話はよく知られていますね。
私は以前からこの話に関していくつか疑問を感じていました。
まず、心身共に衰弱しきっていた彼がネーランジャラー河の辺で、スジャータの娘から捧げられた乳粥を食し、みるみる元気を回復してしまった、というくだりです。
その乳粥がどんな種類のものかは知りませんが、そんなに人に起死回生の効力を発揮するものなのですか?
あるいはゴータマはよっぽど空腹で、その粥が何よりの飢えをしのぐ糧だったのかもわかりませんが、苦行のやりすぎでそうなってしまったという事なので、一寸考えにくいです。
それとも…この乳粥こそは本当にゴータマの身も心も変容させてしまった何ものかの象徴だったのではないでしょうか?
厳しい難行苦行の限界に突き当たり、もはや生命さえ尽きかけてお手上げになってしまった、そこに与えられたもの…何等かの恩寵と呼ぶにふさわしいものではなかったか…真相はお釈迦様に聞かねば分かりませんが…
この事はまたいよいよ次のゴータマの菩提樹下での悟道にもつながってきます。
そこで彼は数日間禅定に入ったとされていますが、おそらく彼の意識にはすでに自力修行というものからは離れてしまったと思われます。
それはこの成り行きで容易に想像出来ます。厳しい修行はすでに断念されているはず…
ではこの禅定とはどんなもの、いかなる在り様のものなのだったのでしょうか?
玉城康四郎先生は、”入出息念定”といわれるある種の呼吸法による心の集中行と観ておられます。
あるいはそうだったのかもわかりません。しかし私はそれはおそらく当初から行法として確立されていたものでなく、その禅定の中でゴータマに自然(じねん)に派生したものだと想像してます。
それは単なる呼吸に伴う調息のみならず、すでに形なき命~ダンマによる”入出息”も自動的に行われていたのではなかったでしょうか?
いや、そもそもこの禅定自体がそのような性質のものではなかったか…と思わされるのです。
もはや意念に基づく、行為としての瞑想修行を超えて、ゴータマは只々菩提樹の下で導かるるままにサマーディに落ちて行くよりなかった…
瞑想経験者などで、純粋意識に目覚めると、もう”瞑想する”ことが落ちてしまい、”ただそのように在らしめられる”だけの状態になってしまう事が知られると思いますが、このゴータマの禅定がそのようなものではなかったか、と拝察されるのです。
つまりは彼はこの禅定を通じて悟道に導かれたのではなく、すでにその契機は与えられていた?という事になりそうです。
その秘密があの乳粥にありそうだという訳です。
なんでもスジャータはそれに諸天妙汁とかいう甘味のする液体、甘露水?を入れていたというではありませんか?
これはますます何かを匂わすではありませんか?
あるヒマ人は言う”コーヒーにスジャータを入れるならば、かき混ぜてはならない! コーヒーの妙味は白と黒の際目にあり…”
私は以前からこの話に関していくつか疑問を感じていました。
まず、心身共に衰弱しきっていた彼がネーランジャラー河の辺で、スジャータの娘から捧げられた乳粥を食し、みるみる元気を回復してしまった、というくだりです。
その乳粥がどんな種類のものかは知りませんが、そんなに人に起死回生の効力を発揮するものなのですか?
あるいはゴータマはよっぽど空腹で、その粥が何よりの飢えをしのぐ糧だったのかもわかりませんが、苦行のやりすぎでそうなってしまったという事なので、一寸考えにくいです。
それとも…この乳粥こそは本当にゴータマの身も心も変容させてしまった何ものかの象徴だったのではないでしょうか?
厳しい難行苦行の限界に突き当たり、もはや生命さえ尽きかけてお手上げになってしまった、そこに与えられたもの…何等かの恩寵と呼ぶにふさわしいものではなかったか…真相はお釈迦様に聞かねば分かりませんが…
この事はまたいよいよ次のゴータマの菩提樹下での悟道にもつながってきます。
そこで彼は数日間禅定に入ったとされていますが、おそらく彼の意識にはすでに自力修行というものからは離れてしまったと思われます。
それはこの成り行きで容易に想像出来ます。厳しい修行はすでに断念されているはず…
ではこの禅定とはどんなもの、いかなる在り様のものなのだったのでしょうか?
玉城康四郎先生は、”入出息念定”といわれるある種の呼吸法による心の集中行と観ておられます。
あるいはそうだったのかもわかりません。しかし私はそれはおそらく当初から行法として確立されていたものでなく、その禅定の中でゴータマに自然(じねん)に派生したものだと想像してます。
それは単なる呼吸に伴う調息のみならず、すでに形なき命~ダンマによる”入出息”も自動的に行われていたのではなかったでしょうか?
いや、そもそもこの禅定自体がそのような性質のものではなかったか…と思わされるのです。
もはや意念に基づく、行為としての瞑想修行を超えて、ゴータマは只々菩提樹の下で導かるるままにサマーディに落ちて行くよりなかった…
瞑想経験者などで、純粋意識に目覚めると、もう”瞑想する”ことが落ちてしまい、”ただそのように在らしめられる”だけの状態になってしまう事が知られると思いますが、このゴータマの禅定がそのようなものではなかったか、と拝察されるのです。
つまりは彼はこの禅定を通じて悟道に導かれたのではなく、すでにその契機は与えられていた?という事になりそうです。
その秘密があの乳粥にありそうだという訳です。
なんでもスジャータはそれに諸天妙汁とかいう甘味のする液体、甘露水?を入れていたというではありませんか?
これはますます何かを匂わすではありませんか?
あるヒマ人は言う”コーヒーにスジャータを入れるならば、かき混ぜてはならない! コーヒーの妙味は白と黒の際目にあり…”