人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

出まかせの祈り

2015-07-15 22:02:57 | 祈りと瞑想
どの祈りの文句、名号、マントラがすぐれているか、効果的なのかと論議したりします。
アホらしい話だと思います。
自分に最もフィットしたものに決まってます。
でも、さらに言えば…私自身では分かり切ったものが有ります。
自分自身から発せられた祈りに勝るものは無い!
これは勿論、それぞれの自分において、という意味です。
そして、その言葉はあらかじめ決まったものなどではありません。
思いつくまま、出るままに(出まかせ)祈るのです。
言葉に出しても、出さなくてもいいです。
祈りに限らず生きた道、命の道に決まったレールなどありません。
”世に知られている尊い祈りが有るのに自分如きものの祈りなど…”という声も聞こえて来そうですが、祈りとは他人事なんかじゃありません。
命の道を歩むのも他人事などである訳ありません。
一体、誰の祈り、誰の道なのか!
”自分如きものの祈りなんか聞かれない”と思っている人には自分の中の内なる光のことなど、到底思えるわけが有りません。
そして又絶対他者なるものの現前に、全くどうにもならない自分を投げ出すことも出来ないでしょう。
そこには思い上がりも卑下もありません。
本当のへりくだりに導かれた時、内なる変容に預かることが出来ます。
ただ我とミオヤとの命の交換が有るのみです。

私はいつも恩寵は思考を超えたところから来ると言ってます。
”色々祈りの言葉を考えてしまって…”と思うかも知れません。
なるべくシンプルであれば、なんでもいいと思います。
(以前に書いた”どん底で唱えるマントラ”というのは極端な例です)
私はある集会で、最初白々しく、又たどたどしく考えながら祈りをしていたら、突然上よりの力に捉えられて、無心の祈りになってしまった事が有ります。
これが祈っている時の特有の不思議な意識状態です。
愛というものが働く時こうした限界を容易に突破させてしまうのかもしれません。
自然と意識が上なるものに向けられてしまうのでしょう。

自分の道が迷って分からなくなってしまった時…
自分自身すらも見失いそうな時…
どうにもならない現実にあえいでいる時…
祈ることすらできない時…
祈れないままに祈らされる
それが…出まかせの祈り。







コメント
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