人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神ながらの道

2015-07-17 13:55:57 | 日本的霊性
私がいつも反面教師のように引き合いにしているのは、かつてハマっていた某教団です。
その時学ばされたことは計り知れず大きかったと思います。もしかして私にとり本当の人生の教師だったかも知れません。
その教団は外的装いとしては日本古来の神道にのっとっておりましたが、その教条主義的有り様はその実、神道本来の大らかさ、寛容さとは程遠いものでした。
やがてそこを離れ、”霊主体従”だとか”元の神が世に顕れる”とか既にその教団でお馴染みになっていたフレーズについて新たな心境の元に学ばせられることになりました。
私にはその教団とおさらばしても、どうしても払拭出来ないものが有ったのです。
一体私は何に引き付けられたのだろう…その元々の出どころ、大本を知りたい…
という訳で”リジェンド”出口王仁三郎師になにかエーテル界に誘われるように、引き寄せられていきました。
そこで出口聖師の神観について触れましたが、どうも時と所によってコロコロ変わるところが有ります。
又私は未だに大本教の主祭神というものがよく分かりません。国常立之尊?神素戔嗚尊?…聖師は皇祖天照大神絶対の世の風潮を考慮して、ワザとそこのところをボカしたのでしょう。
いずれにせよ、私はこの過程でいつの間にか心性にあるファジイ(死語!)なものが芽生えてきました。
これすなわち”神ながら、言揚げしない”という精神に通ずるものかと思います。
出口聖師と言うと、今では神道や霊学の代表的人物のように観られる向きもありますが、実際は聖師ほど同時代で異形、異能の神道家など見当たりません。
他の多くの神道家たちはこぞって皇道の宣揚、国威の発揚を叫ぶなど、まるで熱病に犯されていたようですが、これらの色合いは神道本来の性格とは全く相いれないものが有ります。
聖師自身も時節に合わせたようなドギツイ国教論などを書いてますが、”大本を国教にせよ!”と受け取れかねない曰くつきのものです。
そして裏ではあらゆる凝り固まった、独断的言説をあざけ笑うかのようなハチャメチャ教典”霊界物語”が世に出されました。
”書かれたもの、語られたものそのものに真理など無い、真意は雛形言語に隠されている”と告げているかのように、ここで元の神の復権即真の神ながらの道の復権を示唆していると感じられます。
聖師と同時代でアカデミックな世界でも知られていた神道家、法理学者に筧克彦という人が居ました。
”神ながらの道”という著書はよく読まれていたようですが、あまりファナティックには感じません。私はその”我が国の古来よりの精神には自他一体の共同体的なものが通底している”という説などには共鳴しています。
その筧博士にこんなエピソードが伝えられています。
ある時、日本的精神は鎌倉仏教に発露を見るとする京都学派(これは鈴木大拙師の”日本的霊性”の主要部分を踏襲していると考えていいでしょう)に対し、皇道中心を押し立てる旧派?とで喧々諤々議論が起きていたといいます。
そこで博士は間に入って、柏手を打ちこう言ったそうです。
「双方ともどちらもよろしい、道元様も親鸞様も、それから吉田松陰様もいずれも同じ神様から出てきたもの、それが八百万の神というものです」
私はここに神ながら人のしたたかさを見る思いがします。
如何にも偏らず、公平を示しながらもしっかり自分の土俵に両方を引き入れてしまう…という
儒教、仏教といった外来宗教もこうして平和の裡に我が国に引き入れられていったのでしょう…
この国では偏った物言いは決して根付くことは無いでしょう。
今本当の国ぶりが復権することを待たれます。




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