人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

リトリートはロハで

2015-08-04 19:23:48 | 祈りと瞑想
夏も本番となり、アチコチでリトリートが行われていることと思います。
その様相は様々…安心出来るもの、怪しいもの、我々下層市民にはトンと縁が無い高額の費用のかかるもの…
このリトリートとは元々退去、退くこと、という意味合いがあるとのことです。
退修などとも言いますね。
そういう単純なものなら、これはもうロハに限ります。
なにも大枚はたいて無駄な時間を使いヘンな方に頭がイッテしまう、アブナイ目に合う必要などありません。
この連日猛暑続きの時節には、明るい表通りは避けて、涼しいところに引っ込んで、自分自身もしばし引っ込んでいよう…
一寸ばかし意識を裏の方に向けるだけです。
するとジワジワ、やがてジンジンと感じられて来ます。あのものが…
これは表側の私が退くことにより、裏側の私が表に顕れ始めるという事を物語っているのです。
宗教などでは、押しつけがましく”慎み深くなければならない”、”遜らなければならない”、”我を出してはならない”などと言われますが、倫理道徳とか掟など、わがままな私など”クソくらえ!”という感じです。
でも、このように昔から言われていることには、それなりの内実が有るものです。
それは裏側のものが顕わになるにつれ、自ずから、誰に言われなくとも、そのように導かれてくるものです。
外側から押し付けられることと、内なる催しから自然とそうなることとは、受ける感じには天と地ほどの開きがあります。
自ずから…ということは言い換えれば”自我の、自我による、自我のための戦い”に明け暮れる必要が無い、という事です。
自分の意念から何かを始める、自分が何かを懸命に信じ込もうとする…全く堂々巡り…ご苦労な事です。
何か究極の真理に至るというメソッドがあるらしい…でもメソッドというのは得てして捉われの元です。
かと言って、それを求めるというのも人情かとも思います。
そこで特別なメソッドとも異なる、微妙なものとして”祈り”というのがあるのでしょう。
形があっても無くても、言葉があっても沈黙のものでも、祈り…祈り心とは自分が一歩退くということです。
退修は召喚が伴うと言えるでしょうか…
”自分はしばし引っ込むから、裏方さん出てきてください”という具合で…
召喚というと、悪魔くんの”エロイム・エッサイム”もそうなのでしょうが、念仏を初めあらゆる伝統宗教に見られるものです。
あくまで形として残っているものが伝わっているのでしょうが、意識があっという間にあっちに入ってしまう、という事には形が有りません。
どっちにしろ意識を愛で満たしておくということが肝要かと思います。

現在は極端にも”私は居ない!”とか言い切ることで、ハッキリとシャバとの二元性を強めて行く一元論者も居ます。
それは何よりアンチが生まれてくることでもそうなります。
でも言うまでも無く”退く”という事は無くなってしまう事とは違います。私というのは表に出たり引っ込んだりして、顕幽を行き来しているというべきでしょうか?
そうしてあっちとこっちの本当のつながりを見出そうとしているのでしょう…

暑くて不景気なこのご時世には、要らん労力もお金も頭がフワフワになるリスクも要りません。
私は幾度か愛に捉われてしまった事が有りますが、一回を除いて全てロハです。
何でロハと言うのか? これが実に”只”(字解)だった…笑ってるように見えます…ハハハ









コメント
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