人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

魔境と懺悔

2015-08-25 20:57:35 | 雑感
前回の記事である集会などで”霊的生命が顕わになるのをフタをしたり、覆い隠すことは罪なことだ…などと辛らつな事を書いてしまいましたが、では霊的生命の発露といったもの、霊的なものが高揚されればいいのか、といったらそんな単純な話にはなりません。
むしろそこで、歪んだ霊性が発露するのであれば、毒にも薬にもならない形骸化した、極めて常識人の集まりのほうがずっとマシだと思ってます。
歪んだ霊性とは魔境的なもののことです。
そしてそこではしばしば常識を超えたものならぬ、常識を逸脱した非常識なものが見え始めます。
五井先生はよく神、宗教の道は時に超常識になるが、非常識になってはならないと言っていました。
私はいくつかの宗教的、精神的関わりの中で、全くこの世の常識を超えた状況にも会ってきました。
こうした中では、人間的思考を超えた領域にも触れてくるので、”なんじゃ、こりゃ!”という場面も避けられないのです。
ただそこから離れ常識的な世界に戻った時に、ちゃんと戻れるかどうかを弁える必要があります。
でないと実力行使部隊が出動しかねません。
もし人がどっから見ても常識人で居たいのだったら、そういう集まりに出向くというのが多分間違っているでしょう。
悟りや覚醒を求めるということもそうです。
この世の常識にそんなものなどある訳も無く、有ったら懸命になって常識的に丸め込むだけです。
私がクエーカーのある集会で”霊性の発露”といったことについて発言しようとしたら、ある古い会員から話を遮られ、”もっと現実的な事を話しましょう”と言われました。何だか私は危険思想の持ち主のように感じたらしいです。
”私にそのまましゃべらせると大変な事になる!”と言ってました…。
この会員さんはいたって常識人で、神的なものの顕現もリアルに捉えられず、礼拝中に”体が揺さぶられる”ことは絶対無いでしょう。
この集会、ことにその東京月会では、私は時折このような霊的喚起を促すような発言をしていました。
それは本当にそこでは霊性が後退していたからです。
例えばある礼拝の時など、感話(礼拝中、霊感を感じたものが語るというメッセージ)で、”憲法第九条を守ろう”という趣旨のことを語り出した人がいたのですが、(その話自体は意義があるでしょうが)座禅でも瞑想でもこのような話というものが如何に場違いなものか、ということは言わずともそれこそその世界では常識のハズでしょう。もし、本当にそこで魂が揺さぶられる感話が与えられたなら、場違いな話は沈黙せざるを得ません。
そのくらい、その集会は霊的な土壌に乏しかったのです。
私は結局自分の忍耐不足からか、そうしたしばしば沈黙させてくれない感話をどうしても受け入れることが出来なくなって、集会から遠退くようになりました。
一方で別の何でもかんでも霊的体験、神秘体験…体験至上主義が跋扈する集会では”体験すりゃいいってもんじゃない!”とこぼしたりもしました。
小池先生はしばしば”観念的信仰””御利益信仰””パリサイ(人をやたら道徳観念などで裁くこと)精神”を警戒していましたが、特に重視していたのは”霊的傲慢”というものでした。
それは多く本来上より預かるものであるはずのカリスマ的力、霊的力や霊的体験といったものの私物化に起因するものです。これが魔境的なものに通じてしまうのです。
本当にある人を媒体にして形なき命が顕れるのを止めるべきでないと思いますが、そこから先は一人一人の管理に任せられているのでどうなるかは分かりません。
エゴというものは、この世を一瞬に壊滅してしまうほど危険ですから…
ですからエゴは頭打ちにあって、それまで本当に、自分自身が生きるというよりも先に、命の親によって生かされていたという事に懺悔をもって気づかされる必要が有るのです。
このことに関して小池先生は何度も”聖霊と十字架とは切り離すことが出来ない”と言われていたのでしょう。
それは全く別々のことではありません。
私はどんなに高い悟りの境地、究極の真理を見抜いた…などと語られようとこうした のプロセスを欠いたものは信用出来ません。
とはいえ、それに預かっても自我が消える訳ではありません。
何時変質するか分かりません。
だから甘美な超越体験などは忘れても、懺悔の涙は忘れてはならないのです…。



コメント
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