人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

クエーカー

2015-08-15 14:03:06 | 秘教、その他団体
クエーカーと通称で呼ばれているキリスト教系の一派が有るのをご存知でしょうか?
一頃の五千円札の顔、新渡戸稲造先生がそこに関係していました。
その札幌農学校時代からの朋友、内村鑑三先生が始めた無教会主義なるものは、私は間違いなくこのクエーカーからインスパイアされたものと思っています。
その儀式、煩雑な教義を拝した牧会の在り方、非戦について言及などに伺われます。
ただ内村先生がそれに組しなかったのは、先生のオーソドックスな福音理解と相容れなかったためだろうと思います。
クエーカーはその明治時代には米英を中心に自前の教会を有していました。
だが17世紀英国に発祥して以来長い間文字通り無教会なのでした。
これは教会を持たなかったというより、持てなかったと言ったほうが正しいです。
これは体制を占める自称正統派教会から異端のレッテルを張られていたためです。
クエーカーという呼び名ですが、それは”震える人たち”という意味です。
正式にはフレンド会、基督友会です。クエーカーなる通称の起こりについては諸説が有るのですが、私はごく自然に脳裏に浮かべられるものに従いたいです。
”オヤッ!何だ、あいつら震えてやがるゾ! ケッタイだなあ…”と、その集会の模様を目撃した人間からおそらく広まったのでしょう。
彼らの集会は先の事情で多く野外で行われていたのです。
果たしてその震える集会というのは一体、どんなものなのでしょうか?

私は正直、このフレンド会、クエーカーについて書くのに、いささか躊躇いが有ります。
とても複雑な…相反する思いが今も去来します…一冊の本が出来ちゃうくらいです。
この一派はある面、私にふさわしい、私のために備えられた一群とも言えます。
まず抽象的教理などの夾雑物を介さない、直接経験を重んじること…さらに
牧師といった特定の権威者を置かない…開かれた精神、寛容性…
そして沈黙の礼拝と呼ばれる極めてユニークな…極めて普遍的な祈りの在り方…
だが、反面こんなにも私に似つかわしくない有り様は無い!です。
ある会員に言われました。”何処を見てもあなたにはフレンドらしいところは見当たらないですねえ…”
全くその通りですね…これは言われているイメージですが、”道徳に厚く、克己的であること”
頭のてっぺんからつま先を眺めても、私からはそんなクエーカー像など伺うことなど出来ません!
第一、当の本人が”そんな自分を律するようなごリッパな生き方などクソくらえ!”との賜っているくらいです。
又、クエーカーが世間で認知されているものに平和運動というものが有ります。
私はそれ自体を否定したいと思わないですが、私自らそれに積極的に参与したことはほとんどありません。
それは本当の意味の平和…魂の平安から導かれる平和というものをそうした人間的な話し合い、運動とは別のところに求めているという私自身の根本的な理念が有るためです。
これはまた、ある日平和についてのミーティングが持たれていた時、平和など何処へやらの喧々諤々の口論が始まったのを見て、とても嫌悪感を持ったことも大きな要因です。
こんなことを書いてるっていうのは、私が関係していたからだと思いでしょうが…ハイ、大阪と東京の股をかけてその集会に何回となく出没しましたよ。でもただの一度も正規の会員では無かったです。何せそこには相反するいくつかの思いが去来するもので…
こりゃあ、簡単に済みそうにありません。忘れられないことも、苦い思い出も…
追々綴っていこう…躊躇いながらも、身の震えを感じつつ…。



















コメント
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