人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

顕斎と幽斎

2015-08-11 19:10:44 | 日本的霊性
眼を閉づれは、大神は内に在まし。眼を開けは、大神は外に超在し給ふ。(筧克彦「神ながらの道」)

お盆となり、故郷に帰られている方も多かろうと思います。
お盆と言うとご先祖様を迎えるというより、私にはいつの間にか産土(うぶすな)さんにお参りするものという習慣が生まれました。
産土さんというのは、自分の生まれた地域に鎮守している神社の祭神のことで、いわば守護神にあたります。もっともそれが事実なのかどうかは分かりません。
内なる心象というものが大事なのです。
事実がどうか、(例えば)どういう神という実体が有るか、どうかという事ではないのです。
神社の構造というのは至る所見えないものの、型どり、雛形というものが有ります。
参拝という行為も、見えない、言い表せない心象を行いに表している、という事が言えるかと思います。
最近のスピ系になじんでいる人たちにしたら”神は自分の中にあるのだから、そんな前時代的な、儀礼的なことなどしたってしょうがない”まして非二元原理主義者にしたら”いつまでも分離した次元に居て迷っている”という事になってしまうようです。
私がこのような儀礼的な事をする別の意味は、勘違いをしないようにするため、でもあります。
勘違いとは、物事には秩序あるところにはそれに対応し、秩序なきところでは無礼講も又可である、という事を弁えないところから来ます。
例えば”私は神だ、無だ…”と、限界ある世界、限界ある身ながら何もかも飛び越してしまったような物言い…
何処の生き仏、現人神なのか…
自分というもの、私性というものを前面に表しながら、そのような言説をしていること自体が私には迷いに映ります。
まるで全て分かったように、思議を超えたような言説が飛び交う…迷った思念ばかりが周囲に漂う…
一元的なものと二元的なもの、見えるものと見えないものとの混同はひいては何処にも導かれなくなってしまうのではないでしょうか?
神道では古来、斉祭りには顕斎と幽斎の二種が有るとして両者はどちらにも偏ってはならないものとされてきました。
前者はごく普通にみられる形式にのっとった儀礼的なもの、後者は形の無い、これぞ”神ながら”というような鎮魂やある種の瞑想に通じたものです。
これは、実に人生における見える表側、見えない裏側との関係に対応していると言えます。
また、いきなりあっちの世界との交渉に関わるということには、心身のバランスが乱れるなど、危険が伴うものです。
(ナメたら絶対ダメです!)
そこで、まず顕斎を通じ自分を超えた、名状し難いもの”神”に守護、感謝を表すのです。
これは何も神道だろうと、何だろうとどんな宗教的伝統でも共通の在り方だと思います。
実際のところ私は何かの行事に参加した時以外、きちんと形式にのっとったことをするわけでは勿論ありません。
以前はある神社の氏子もしていましたが…
ごくシンプルなものでもいいのです。ただここでは外に神を敬う心根を忘れないようにするということが重要なのです。
そして神的なものは相対的この世の限界内では超越的なもの、上よりの力として現臨してくるものであり、扉が開いてから一元的絶対境が開かれる、ということが自ずから習わされるのです。
そして何よりもこのことを通じて思い上がった”私が”という心根が一歩退くことにより、
自分がある、というより先に未生以前のものがあり、目覚めというものは、このものが顕わになることに他ならない、ということが知らされるのです。
それは自分自身が見えない大いなるもの象徴、型どりとして生まれてきたという事を表しているのでしょうか…






コメント
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