人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の裔

2015-08-10 14:31:20 | 雑感
70年前、日本に原爆投下するに際し、当初原爆を開発した一部科学者から強い反対意見が出され、トルーマン(真人)大統領は一端はそれを受け入れたものの、推進派の”計画は進行しているのに今更なんですか!”という説き伏せに屈し”自分とは別にことは流れるままに起きているんだ…”と思ったのかついに運命の決断をしてしまいました。
私はこのような歴史の負の重大局面には、特定の人間を戦犯扱いにすることは出来ない、とつくづく感じています。
”ユダヤ人虐殺を決行したのは誰だ!総統閣下だ! じゃ、ヒットラーのジェスチャーたっぷりの演説に大喝采をしていたのは誰だ! そもそも彼をあそこまで祭り上げたのは誰だ!…”
”火の洗礼に二度までも見舞われる運命を招くことになる、日本の軍国主義化に導いたのは誰だ!”挙げればきりがありません。
歴史の局面では、真意に根差した言葉は伏されて、ただ時の流れに迎合、追従するままに生末の分からない方向に導かれていってしまうのです。
最近、私が知る限りの本当のトルーマン(真人)の言葉というものを見出しました。

”朕が神の裔でないとすることには反対である”「昭和天皇実録」を読み解く(文春新書)

昭和天皇は”現人神”天皇の神格化にはもともと不満を抱いていたらしく、こうしたGHQ側の申し入れはすんなり受け入れたようですが、同じ”天皇は神の末裔というのは、架空の観念である”とする意見には反対したので、あの「人間宣言」からその部分は伏せられたのだそうです。
GHQの一部には”アンタの信仰表明などに付き合ってられるか!”と思ったものも居たかもわかりません。
でも私はこの天皇の言動こそは真言、玉だったと信じます。
これは推測ですが、GHQ側はこの真言に接してある種の犯しがたい威厳に触れたのではないでしょうか?
マッカーサーが当初、ナメた態度を取っていたが、天皇と面会を重ねるうちに態度が変わったように…
”神が本であり、人は枝、裔である”という事は一宗教、一思想の観念、信仰で片付けられてしまうものではありません。
ある真人、真言の表れに触れると誰しもが魂に呼びさまされるものを感じるはずです。
人類の歴史は累々たる屍の上に刻まれているようにも見え、ついには自らその歴史を終わりにする切り札を握るに至りました。
”この世に神など居ない”と多くのものは感じていることでしょう。
そうじゃありません。歴史というものは、神を封じ込めたところから始まっているのです。
この歴史は基礎が無い建物に等しいのです。いつ崩壊してもおかしくありません。
でも、私はそこに逆説的な感慨を持っています。
”とっくに崩壊してもおかしくないものが、どうしてこんなに持ちこたえているのだろうか?”
人間はその全てを微塵に帰す、プロメテウスの火をついに手に入れ、絶対に引いてはいけない引き金を引いてしまったのです!
しかし、この事実を改めて聞いて、私は驚きを禁じ得ません。
何と、それは今から70年前の事だったのか!と…有ってはならない、使ってはならないその行使…二度までも…いや視点を変えよう…たったの二発で済んでいるのか…
この歴史は主不在、コントロール機能不能のまま旅客機が運航しているようなものです。
もし、コントロール可能なのであれば、有ってはならない幾多の選択などしてません!
真の主の無い歴史は個人といい、一国家といい、人類全体といい、ただ無意味に流転を繰り返すだけです。
ことの責任はどこにも向けられることなく…
でもそこには隠れた主、かつて我々が葬り去ったはずの主が隠れている…そこに歴史の源泉がある…
我々はその枝、いや出来損ないの実子と言うべきか…
我々が本当に行きどころを無くし、主権を真の主に明け渡した時、あの象徴的存在が人知れず漏らしていた言葉が想起されるでしょう。
昭和天皇の人間宣言に隠された真言に人類全ての生末が託されていると感じずにおれません。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする