人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

実体無きリアリティ

2015-08-05 19:59:14 | 哲学・思想
私はあるとか無いとか…
肉体とかある形としてある実体を追いかけても、答えは見つからないでしょう。
幽体とか霊体とかいった、見えない実体?というのはどう捉えたらいいのか、霊能者でない私には正直分かりません。
レム睡眠時に見る、ケッタイな生き物やユーレイ状の思念?を元に推測すると、それらはこの思念に満ち溢れた現実世界の延長のように思えます。
普段、普通には見えない物が何かの条件下で見えるということなのでしょうか?
そうとしたら、何かをヴィジョナリーに見てるということには変わらないでしょう。
私が見えざる導師と言っているあるものには、そのような実体などありません。
見えもしないし、形としての音声というのも発しません。
だから”じゃあ、無いんだ”…って事にはなりません!
これが困ることなんです。人に納得してもらうのに…
今は納得してもらおう、信じてもらおうなんて邪心は無いですけど…
多くの人は形あるもの、見えるもの、掴めるもの…実体のあるものにこそ実在性が有ると思い込まれています。
この実在性というのは、実感として言えるのは実在感がもたらしているのです。
そのインパクトたるや何が見えた、聞こえた、捉えた…などといったものの比ではありません。
”なんかリアリティがあるなあ”などという…見えざる導師の別名は”リアリティの権化”です。
このものにリアリティが有るんじゃなくて、このものがリアリティそのものなのです。
このものに愛が有るんじゃなくて、愛そのものなのです。愛の権化です。
この圧倒的な現臨感というのは形ある、ある実体を持った私が超えてしまったところで起きます。
だからと言って”私は無い”とは言えません。
この意識の転換によって実体を持った私は仮のものだったという事が知られます。
仮のものということなのであって、幻想や”無いです”で片付けられてしまう訳ではありません。
成程、実体あるものだと思い込むことからくる苦しみ、悩みも仮のものとなり、解消されるかも知れません。
同じように喜びも幸福も仮のもので、解消される…そうはいかない!
むしろそれらの諸々の覆いが取り払われ、その中身、源泉というものが示されます。
何故ならば愛と幸福の権化と共にあるから…幸福とは不幸の反対語ではありません。
幸福と”私はある”という実感は一つのものです。
逆説的な事を強調しますと、実体ある私に捉えられている時、”私”の実在感は希薄となり、離れている時、よりいっそう”私で居られる”のです。
それはリアリティと共にあることでそうなります。
私という実体は無いのかもしれませんが、実感はどうしたってある…。

というような話というのもホントは仮のものに過ぎないってのはもうお分かりですよね。
本当のことを知りたければ、貴方自身の借り物でないリアリティに委ねるしかありません。
そうなることはどこの誰からも要求される道理などありません。
”信じなさい”とか要求されるのはすべてエセ宗教まがいです。
あなたがそれを望むかどうかだけです。
今、脱スピというのが盛り上がっているようですが、皆真実に触れられれば良いですね…。




コメント
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