人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

行き着かない話

2016-10-04 14:32:12 | 哲学・思想
人間の探究心、行き着くところまで極めたい、という欲求には、行き着くところが無いようです。
この世界はこのあくなき人間的探究によって、開かれて来、深められて来た、と言ってもいいでしょう。
しかしながら、科学的な面などでは、そのツケというか、始末しなければならない事も無限にあるようですね…。
精神面でも、それを極めて一体どうなるのか、何の役に立つのかは知らないけれど、行き着くところまで求め続けている人も居るようです。
その末に自分が無くなってしまったら、本もコも無いと私は思うんですが…

私は長い間、”究極の…”という事じゃなく、無意識の一歩手前の、自分が認識する事の出来るギリギリの意識的有り様とは、所謂純粋意識という有り様であり(如何ながら、かなりアヤフヤな表現をしているかと思います)、ここが全ての元なのだと思い込んでいたフシがあります。
認識という点ではそうなのかも知れませんが、ここが行き着くところだと言ったら、どうも違います。
そのように、思われた領域を超えた純粋意識の領域に導かれる事態になってしまう、というその元というのがどうしたってありますから…
私は自分の力でそうなった訳じゃないのです。
この意識というものには未だ解明されていない面がありますが…(というかそれは如何に客観的に解明しようとしても、たどり着けないでしょうけど…解明に従事する人間が純粋意識に導かれる訳でもあるまいし…もし、そうなったら”研究なんてアホらしくてやってられんわ!”ってなるかもです)
表現の上である意識状態というか、静止した状態みたいなことを連想するかもしれませんが、これが全くそうじゃないです。あくまで私の感じですが…
全くこうであると言い表すことが出来ないものです。そういう如何にも観ているような表現を吹っ飛ばしてしまうような動的な、生きたものと一枚になっている、と言うか…こういう事もあくまで私というものが認識している上での表現に過ぎないのです。
それは言うまでも無く自分の力、思いによるんじゃない、そうなるそもそもの元というものが有り、そのものに明け渡したことによるものなのです。
だから、純粋意識というものが元にはならないのです。その元なるものは根源的光とも言うべき照射というものによって認められます。
そこに目の当たりにする全てを照らし、浸透する愛としか言いようのないもの…これを純粋意識とか宇宙意識とか意識の何たるかという事で、片付けてしまうことなど到底できません。
強いて言えば意識よりも愛が元です。そのものなくしてそうなりようがありませんから…。
その元というものがどうゆうものかという事は…言えません!
都合よく、又親しみのある表現にすれば神かもしれません。
少なくともOO意識よりは私には頷けるものが有ります。
こういう事には御存知のように様々な視点、感じ方というものが有ります。
上述したものも私自身の観方に過ぎないのです。しか―し…この観方、感じ方…これも明け渡したはずの私に基づいているんですよね…
何かを伝えようとしてそういう表現を借りるんですけど…いつの間にか”私が達した至高なる境地…ここが究極の真理なんです!”と、そう言いたい私が顔を出し始めます…又、そのような決めつけた物言いというものに、その人間的なサガみたいなものを感じてしまいます。
認識し得るギリギリの線について述べる事は、私は哲学的意義を認めていますが、決定論を持ちだしたらちっとも哲学的になり得ません。
要するに、認識を超えたものというものは分からないのです。どこまでも広がっていて、どこまでも深く、どこまでも自分と一枚なもの…
決定論を持ち出すことは如何にも”私がそれを捉えました!”と言わんばかりです。
捉えた途端、生きたものじゃなくなるのに…そんなに涅槃に行きたいのでしょうか?
限界ある自分を起点にして、どこかへ行き着ける訳でもなく、捉えられないものについては、そのもの自ら顕れて示してくれなければ分かりません。
精神的世界で年々、新たな気づきが切り開かれているように見えるのは、何かの境地に達した人がそう言っているので無しに、裏からそう言わされているだけなのでしょう。









コメント
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