関西時代に知り合った知人Tさんは、定期的にミニコミのような通信を出していて、それで最近初めて知ったのですが、彼は学生時代私と同じく五井先生にハマっていたのです。
それも一日に何百回も、何千回も「世界平和の祈り」をしていたというのだから、私とは比べものにならないくらい熱心だったようです。”ええっ! 私と違って?クールなあの人が!…”
ところがTさんは、ある時からパッタリそれから離れてしまいます。その理由は「この世のあらゆる苦しみは消えて行く姿である」という、五井先生の説き方に違和感を覚えたからだそうです。
彼は、その教説から”苦しみや自分に都合の悪いものが消えて行けば、自分も世界も平和になる…”、という風に受け取ったらしいですが、彼はどうも曲解していたようです。五井先生が言わんとしていたのは、”苦しみや障りとなるもの、それ自体が消えて行くんじゃない、消えて行くのは、それにまつわる思いである…”ということです。それも思いというのは苦しみとか悪いことばかりじゃない、”自分でいいと思っていること”もなのです!…五井先生の縁者にはこういう曲解をしている人が結構いるようです。
何十年も信者を続けている人でも、長年、白光会で講師をしていた人でさえも…曲解どころか、消えて行くはずの妄想がどんどん増幅されていくようです。”世界はフリーメーソンに牛耳られているので、高次元の光でその陰謀を阻止し、消し去らねばならない…”こういってのける人というのは、たった一人の生身のフリーメーソン会員なりを知っているのでしょうか?…見たことも確かめたことも無いアヤフヤな事を信じ込むのが妄想です。
Tさんは、こうしたことを先般の相模原障害者殺傷事件の容疑者を引き合いに出して指摘しているのです。
この容疑者はハッキリ陰謀論やオカルトにカブれていましたが、その手紙の文末で「世界が平和になるように」としたためているところから、五井先生を信奉していた可能性は高いです。(Tさんは決めつけていましたが…)どっかに実体として実在しているサタンや闇の勢力、地獄…消えて行く姿の教えというのは正にこうした妄念に捉われた人たちのために有ると言ってもいいでしょう。(とりわけそれは罪の意識に苦しんでいる人たちへ向けられていたと思います)…だのに何が悲しくって、いつも頭の中で闇の勢力と戦い続けているのでしょうか? ひょっとしてフリーメーソンもイルミナティーも”救世の大光明”(そういうものがあるとして)の別動隊か裏部隊って可能性だってあるのに…
このように思いというものを実体あるものと混同して、自分の思いの中の善悪二元論に走ってしまう危うさ…彼らは来るべき光一元の世界を信じ続けています。そこには、”闇の勢力などあっちゃならない…同じように神の子、神の分霊である自分に悪、罪などあっちゃならない…それらが消えなければ自分も世界も平和にならない…しかし、そう信じたいという強い思いとは裏腹に内心に根差しているこの黒く、ブキミに蠢いているのは…そういうものは見ないフリ、無いことにするに限る…”
そうして行きどころが無くなった思いが、サタンや闇の勢力として投影されるのでしょう…ここにはキリスト教原理主義とそっくりな構図が見られます。原理主義はどんどん高じて行って、やがて自らがサタンという実体のようになって暴走してしまうのは、今の世界情勢に見る通りです。
こういう事は、消えて行く姿というのは、祈りと共にあるものであることが蔑ろにされて、自分の信念、思念、行などに知らず知らずに転化して行くからだと思われます。守護の神霊に委ね、その恩寵、ハタラキによって思いを祈りの中に入れていくという事から、信じなければならない、従わなければならない教えになり、そうした思いに捉われる事になってしまうのでしょう。
いいですか! 消えて行く姿の神髄というのは…実は…”知りません!”
イイカゲンにハマっていただけですから…ただ、祈っていたら、というか神的なものに意識を向けていたら、現臨が臨み、良いも悪いも思いというものが離れて行く、というのはいつも書いている通り分かります。
こういう捉えどころのない話を、現臨だとか全てを見通す目とか怪しげな言葉を交えず、誰にも分かるように述べていたのが五井先生なのです。良い思いも悪い思いも消えたら、相対を超えた調和世界が生まれる、というある意味ノンデュアリティの定番のような教えを分かり易く示されていると言っていいでしょう。
そこには「消えて行く姿で世界平和の祈り」というメソッドが打ち出されています。メソッドというのは向き、不向きもあり、曲解も形式化も付き物です。それは何より、より多くの人たち、大衆に向けられたものだったからです。それが先生の役目だったということですね。
大衆というのは思念の集合みたいなものでいつも迷って、漂っているのでどこに行くか分かりません。
しかし、そのように、広ーく撒かれた種の一粒が私の日陰の泥土に発芽したのか、求道が始まったのです。
ま…”こういう事もあるのか”というつまらぬサンプルに過ぎません…。
それも一日に何百回も、何千回も「世界平和の祈り」をしていたというのだから、私とは比べものにならないくらい熱心だったようです。”ええっ! 私と違って?クールなあの人が!…”
ところがTさんは、ある時からパッタリそれから離れてしまいます。その理由は「この世のあらゆる苦しみは消えて行く姿である」という、五井先生の説き方に違和感を覚えたからだそうです。
彼は、その教説から”苦しみや自分に都合の悪いものが消えて行けば、自分も世界も平和になる…”、という風に受け取ったらしいですが、彼はどうも曲解していたようです。五井先生が言わんとしていたのは、”苦しみや障りとなるもの、それ自体が消えて行くんじゃない、消えて行くのは、それにまつわる思いである…”ということです。それも思いというのは苦しみとか悪いことばかりじゃない、”自分でいいと思っていること”もなのです!…五井先生の縁者にはこういう曲解をしている人が結構いるようです。
何十年も信者を続けている人でも、長年、白光会で講師をしていた人でさえも…曲解どころか、消えて行くはずの妄想がどんどん増幅されていくようです。”世界はフリーメーソンに牛耳られているので、高次元の光でその陰謀を阻止し、消し去らねばならない…”こういってのける人というのは、たった一人の生身のフリーメーソン会員なりを知っているのでしょうか?…見たことも確かめたことも無いアヤフヤな事を信じ込むのが妄想です。
Tさんは、こうしたことを先般の相模原障害者殺傷事件の容疑者を引き合いに出して指摘しているのです。
この容疑者はハッキリ陰謀論やオカルトにカブれていましたが、その手紙の文末で「世界が平和になるように」としたためているところから、五井先生を信奉していた可能性は高いです。(Tさんは決めつけていましたが…)どっかに実体として実在しているサタンや闇の勢力、地獄…消えて行く姿の教えというのは正にこうした妄念に捉われた人たちのために有ると言ってもいいでしょう。(とりわけそれは罪の意識に苦しんでいる人たちへ向けられていたと思います)…だのに何が悲しくって、いつも頭の中で闇の勢力と戦い続けているのでしょうか? ひょっとしてフリーメーソンもイルミナティーも”救世の大光明”(そういうものがあるとして)の別動隊か裏部隊って可能性だってあるのに…
このように思いというものを実体あるものと混同して、自分の思いの中の善悪二元論に走ってしまう危うさ…彼らは来るべき光一元の世界を信じ続けています。そこには、”闇の勢力などあっちゃならない…同じように神の子、神の分霊である自分に悪、罪などあっちゃならない…それらが消えなければ自分も世界も平和にならない…しかし、そう信じたいという強い思いとは裏腹に内心に根差しているこの黒く、ブキミに蠢いているのは…そういうものは見ないフリ、無いことにするに限る…”
そうして行きどころが無くなった思いが、サタンや闇の勢力として投影されるのでしょう…ここにはキリスト教原理主義とそっくりな構図が見られます。原理主義はどんどん高じて行って、やがて自らがサタンという実体のようになって暴走してしまうのは、今の世界情勢に見る通りです。
こういう事は、消えて行く姿というのは、祈りと共にあるものであることが蔑ろにされて、自分の信念、思念、行などに知らず知らずに転化して行くからだと思われます。守護の神霊に委ね、その恩寵、ハタラキによって思いを祈りの中に入れていくという事から、信じなければならない、従わなければならない教えになり、そうした思いに捉われる事になってしまうのでしょう。
いいですか! 消えて行く姿の神髄というのは…実は…”知りません!”
イイカゲンにハマっていただけですから…ただ、祈っていたら、というか神的なものに意識を向けていたら、現臨が臨み、良いも悪いも思いというものが離れて行く、というのはいつも書いている通り分かります。
こういう捉えどころのない話を、現臨だとか全てを見通す目とか怪しげな言葉を交えず、誰にも分かるように述べていたのが五井先生なのです。良い思いも悪い思いも消えたら、相対を超えた調和世界が生まれる、というある意味ノンデュアリティの定番のような教えを分かり易く示されていると言っていいでしょう。
そこには「消えて行く姿で世界平和の祈り」というメソッドが打ち出されています。メソッドというのは向き、不向きもあり、曲解も形式化も付き物です。それは何より、より多くの人たち、大衆に向けられたものだったからです。それが先生の役目だったということですね。
大衆というのは思念の集合みたいなものでいつも迷って、漂っているのでどこに行くか分かりません。
しかし、そのように、広ーく撒かれた種の一粒が私の日陰の泥土に発芽したのか、求道が始まったのです。
ま…”こういう事もあるのか”というつまらぬサンプルに過ぎません…。