人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無の福音、普遍的福音

2016-10-23 11:59:00 | 人生の教師
ありし日の福音集会…
その場は聖霊のたぎる白熱の様相を呈していた!
檀上の人はうめくように呟いた…
「主様!…私はもう、これ以上語れません…」
そして…ただひれ伏しているのみだった…

私はこの光景が目に焼き付いて離れません。
キリストの霊に捉えられた小池辰雄先生の姿…
そして…このことを思い起こされた今…そうです!、この今…
言い表し得ない現臨の迫りを感じています!

ある人は言った「ただ意識を向けただけで、ある種の神的エネルギーに預かってしまうのですか、あなたは…あなたのように出来る人はいいですよ…」と…
違う!違う!違うっ!
私は全く取り柄の無い、何一つまともなことも出来ない人間なのです!今も。年が年だし、ずっとそうでしょう…
劣等感が強く、自意識過剰な私はいつも人の目ばかり気にしていました。
このダメな、デキソコナイの自分を変えたい…と望んでも、いつも虚しい空廻りばかりしていました。
そんな暗闇に喘いでいた私に光が差し込んで、”あるがままでいいんだよ…”という抗し難い力と共にある、声なき声に促されるままに委ねるだけだったのです。
私自身は何も出来ない…すべて上よりの力、恩寵に依っていたのです。
これは、ある意味、自分は為すことが出来、一歩一歩成長していって、霊的にも進化して行く道の放棄です。
世人は言います。”己に打ち勝て、持てる力を出し切ってこそ人生の勝利が有る”と…
だが…これは敗者の道とも言えるでしょう。これが勝利を目指している人にはどうしても伝わらないのです!どうしても”ヤル自分、為す自分”が居ないと気が済まないらしいです。だからいつもこうなる
”やってみれば…”
又こうも言う、”自分を見つめ直す”あるいは”本当の自分を探す”とか…これは私にしてみたら、ますます自意識の雁字搦め地獄にハマりそうな話です。どこまでもギューギューと自分に固着し続ける思い…自己そのものは限りある自己からはたどり着けない…目の当たりに出来ないものです。自己を超えて現前に臨むものに依らない限り…そして自我の絡まりから解き放たれ、目の当たりにするは”我ならぬ我”…真我…キリストと一なる我…
”主(子)に依らなければ誰も一者(父)につながることは出来ない”
キリスト教聖職者たちは鬼の首を取ったように”イエス・キリストを信じなければ天国に行けない…”などと言います。
ナニやカニを信じる前にそう信じているあなた自身を信じられますか?…とても暗くて、呪わしくて目をそむけたいですか?
しかし、その門を通らければ光に預かることは出来ません。これは如何なる信仰の話などじゃありません。
いやこれも出来る、出来ないの話じゃない…愛なる主の導く”十字架”の門です。
十字架…私にはずっと異邦人のように躓きでした。一体なんの贖罪信仰なのか…
私は長い間、この事をどこか傍観していて自分自身の問題になっていなかったようです。
「十字架と聖霊は切り離すことが出来ない」
こう語っていたのは、信仰万能のキリスト教界に有って「私には信仰なんてありません」と公言していた小池先生です。
頑な自我を砕き、主と共に新らたなる我へと通ずる門…これは如何なる宗教宗派の違いを超えて、普遍的人間の実存に通底することではないでしょうか?
自己を何ものともしない…無、ゼロ地点…これは逆説的ですが、どんなダメな、惨憺たる自分だろうとそのままだという事です。
無になる事とはまるっきり違います。そしてこの無は無限と相即しているのです。
これはキリスト教でない、普遍的福音ではないですか!

私は小池先生との出会い無くして、目覚めの契機に導かることも無く、たとえ預かったとしても、己を何ものかになろうとして、肥大した自我に押しつぶされていたことでしょう…
先生のあの姿こそ主の現前に有る者の姿としか言葉が見つからないです…。



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