人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

道と宗教

2016-10-10 11:11:26 | 宗教
「宗教は世に多かれど、宗教の由りて来たりし道は唯一のものである。
いずれの宗教より入るも、この唯一の道に達したならば、わが一心に一切の宗教を融和することが出来る。」(高田集蔵・道と宗教)

「あなたの言う”日月神示”と今、書店を賑わせている”OOの霊言”とどう違うのですか?」
何時だったか、こんな素朴な疑問を向けられた事が有ります。(他意は感じられない、全く素朴なものだったと思います)
私は神示、霊言のようなものだったら、何でも触手を伸ばすかと思ったら大間違いです。
むしろその多くは生理的に受け付けないものの方が多いのです。
どんな高次元の神サマだか知らないが、読んだ途端に襲ってくる、あのジンジンならぬザワザワ感を何とかして欲しい…誰かお祓いしてくれないかと思います。触らぬ神に祟りなしですね…。
とは言っても…大本や日月神示、但馬、丹後に発した謎の神示等…私と縁が深かったのも事実です。
何が違うと言ったら、私の気線と合うか、どうかの違いと言ったらそれまでですが、神懸かればいいってものでも、手が勝手に動けばいいってもんじゃないのです。
では、何が私の気線を捉えるのか、それは戦前を中心に活躍した知られざる思想家、高田集蔵師が上掲のように代弁してくれている感があります。
師は岡本天明師と親交が有ったことで知られていますが、神サマ関係に留まらず、キリスト教、仏教、儒教等、諸宗に通じ、その源泉たる道を開示せんとした、まさにこの言葉を体現した人物なのです。
師の知られざる軌跡が表に出されたならば、そのまま今日まで知られる表側の宗教、思想の裏面…すなわち大本教、無教会、岡田式静座法や各健康法、一燈園などの修養団体、京都学派、大谷学派などの仏教的宗教哲学…明治、大正時代を中心に隆盛したこれら精神的潮流の底流に流れる知られざるネットワーク、霊脈をも浮き彫りにする事でしょう。
その周辺には又、幾人もの師と同じような精神的無宿人、宗教的アナーキストたちが存したことでしょう。師は内村鑑三に触発されたキリスト者でもありましたが、師こそはホンモノの無教会主義者だったと私は思います。というのも、所与の教理という”教会”から自由でないのは無教会主義にあらず!と感ずるから…
この記事との関連に絞れば、大本と中国の道院との提携を機縁として宗教の元たる大道を明らかにする機運が生まれ、日月神示もこの流れから生まれ出たものと思いますが、その要所に高田集蔵師の存在が有ったようです。
宗教宗派の対立は何故生まれるのか? 道に根差した精神の無いところ自由なる精神は生まれないからです。
出口王仁師や日月神示の周辺にも排他独善に捉われた傾向が生まれる事も有ります。
だが、そこには道の精神は生きて居らず、相対的宗我に陥っていることを知るべきです。
宗教やスピ界というものは、トラワレ、妄想製造工場と言ってもいいでしょう。
そこに支配しているのは、素朴実在論といったものです。OOの神、前世、未来予言、陰謀論…確かめようのないことをただの思い込みだけで短絡的に信じ込み、これ又使命感にツカレたように周囲に広め始める…自他ともに精神的自由を欠いた思考停止病に感染して一体何が楽しいのでしょうか?
この事は勿論、道を伝える媒体を通しても容易に感染してしまう事も有ります。
だが、私は出口王仁師の言葉にも、日月神示にも、知られざる神示にも、信じることを強要させるような圧力というものをほとんど感じたことはありません。
道で語られることはある種の型、物型理なのです。信じる教えにあらず…短絡的に飛びついて信じ込むようなものじゃないのです。
神示という形そのものが型と言ってもいいでしょう。型は媒体であり、その奥にあるものは銘々のミタマで悟るしかありません。
それには自己以外の何かでない、自己という唯一の門を信頼を以てくぐらなければなりません。そこに唯一の道が開けてきます。
どのように信じ、感じ、受け入れようとあなたの自由…それが厳かなるミタマの縁、相応というものなのです!これが”信じなければ…”という私の気線が受け付けない、類似宗教的なものとの大きな違いと言えるでしょう。
私が宗教的トラワレ、あるいはオカルト短絡思考から離れたのも、実はこれら道の媒体との縁に依っているのです…。






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