人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りの奥にあるもの

2016-10-05 13:36:32 | 祈りと瞑想
「諸々の苦しみ、問題は思考と意識が同化されているからで、意識を思考から離せばいいのです…」
って…”やってみろ!”と言いたいです。
道理は誰だって分かるかもしれないが、やって出来る人なんてまずいないでしょう。
また逆に”その問題にトコトンなり切ること”でも思考から離れる事が出来るとも言う…何十年取り組んでもそうなれるかどうかわからないような、匠の業がホイホイと出来ますか!ってんです。
このほか”神に全託すればいいのです!”とか…こう言う事を言えちゃう人というのは、まず自分でやったことが無い人に違いありません。そして、思いのままにならない、思いの重圧というものを知らないらしいです。
”こうすればいい…”と言うのは頭の中にしかありません。思いを離れよう、超えようとしているのに、意念の限界内で何かのトライを始めるというのが、そもそも意識と思考のゴッタになった堂々巡りなのです。
それでも…私はそんなシンドイ思いをしている向きには、こう言うかも知れません。”祈ればいい”と…
私が昔のことを回想風に綴っているのも、祈りというものが意識が深みに導かれる契機になっている、という事、
又、全く観念的に思い描いているだけだった、神的なものが、言い表し得ない生きたものとして、実感するようになった契機という事をそれとなく示そうとしているのです。
祈りにもいくつもの捉え方が有りますが、私はここでは何かのメソッド、方法論とは違う意味で述べています。
祈りの決まった言葉、マントラ、祈りの形というもののことでは無いのです。
そういう祈りのやり方というもの以前に、自分自身に尋ねるべき事が有ります。
自分には祈る気持ちが有るのか、どうか…
祈り心が無いのに、祈りのやり方もヘチマも無い…それではただのおじぎ草か拝み虫(カマキリ)です。
祈る気が無いという事は、ホントは問題を抱えた自己から離れようとする気が無いのかもしれません。
それだったら、気が済むまで色々な事にトライすればいいだけのことです。あるいは、”やって出来る”希少な人間になれるかもわかりません。(いつも振り出しに戻る)
これは逆に言うと自己を離れるという事は、自己を超えたものへの思念無しには生じてこない、ということになるでしょう。
自己から離れない思いがそうさせてくれないからです。
自己を超えたもの…それは、特定の宗教、神を信奉していなくても、誰にでもボンヤリとなりに心象に息づいているものでは有りませんか?
祈りというのは、この心の奥にあるものの表れです。
それは、言葉にならない神への感謝、賛美であったり、哀願かも知れません。
何にせよ、それは真心の発露のはずです。やり方とかメソッドに置き換えることなど出来ません。
インドの神秘家サンダー・シングの言うように、神との語らい、命の呼吸でしょう。
そして祈りによって人から、教えられたり、”信じなければならない”信仰を通さずとも、自ずと、ジンワリ、ジンジンと神的なものが心身に浸透してくるようになります。
その祈りの奥にあるもの…心根に有る祈りに赴こうとするあるもの…祈りに赴く…ということはそう促せるものが有る…
このように綴っていくと、そこにこちら側からのハタラキかけと、あちら側からのハタラキかけというものが相依なしていることが伺われると思います。
これは人間的なものと神的なものとの協調に呼応するものとも言えるでしょう。
祈っていると、ホントに心にわだかまっていた思いが、黒雲がみるみる晴れて行くように、消え去ってしまう事もしばしばです。
といっても、実は別に祈っていた訳じゃない(言ってることがオカシイですが…)意識があっちに向いてパッ、とそうなるだけだったりします。
しか―し…それも、祈りというものが私の精神的な道だったから、いつの間にか身に覚えていて、そうなるまでです。
これは思いを超えて神的なハタラキにつながってしまう、という事を言っています。
祈りはただのお願い事でなく、こうした奥義が有るのです…。





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