私は物心ついた時から人間というものは死なないものだと思っていました。
どうしてそう思っていたのかは全く分かりません。
とにかくこうして生きていることが、死と共に終わってしまうという事がどういう事なのか全く理解出来なかったのです。
それが5歳くらいの時、父の「人間は死んで灰になって、なにもかもオシマイ…」と幼い私の感受性にこれでもか、これでもかと無慈悲な宣告を告げるような死についての説明を受けた時は”僕の世界は終わった…”、”どうも生まれた世界が違う”ように感じたものでした。
私の”信仰”が最大の危機に見舞われたのですが、ずっと今に至るまで”死んで終わりの宗教”に改宗した覚えはありません。
又、これは多分に宗教的だった母の影響だと思うのですが、神様というものが居て、いつも守られていると信じていました。
全く自然に受け入れられていたのです。多分これは上記の私の古来伝来の?”死の無い宗教”とつながりが有ると思います。
ずっと後にこの古代宗教の起源らしきものを垣間見た事が有りましたが…
誰でも幼い頃こういうものが芽生えていたのではないですか?
これが家庭や学校などで、頼みもしないのに科学やら倫理社会やらの新手の信仰の強要が始まり、心象に自然に根付いていたものは、そうであるべきものに取って代わられるに至ってしまう訳です。
やがて人によっては、人生に苦難、問題、疑問などから所謂宗教に関わるものも居ることでしょう。
そこには物心ついた時から根付いていた信仰の香りも伝わっているかもしれませんが、自分自身が自由に感じ、信じられていたものが退けられ、周囲の声に従う事が当たり前の事のように慣らされてしまうところから、信じなければならない権威におもねることになってしまうのです。自己信頼の欠落と共に…
このように元々心象に根付いているものと、他から付加されたものとはまるっきり違います。
前者には確たる対象が無い(という事は自己と切り離されていない)ので、信じ込み、従う必要がありません。特定の宗教思想、イデオロギーに依らず、各宗派のような分離した形になることも無く、個々の内面に根差したものなので、共同的なものになり得ても集団化することは有りません。(この違いは微妙なもののようで全く違う事です)
このように我々が”後天的”な宗教に依拠してしまうのは、確固たるものに従いたいという要求からでしょう。だが他から与えられた確固たる信仰には生き生きとした精神というものがありません。
信じなければならないものとは、自体がアヤフヤなものだからこそなのでしょう。
そして信じ込むことで、生きた精神は変質したり、冷却したりします。
私が学生時代M教団に入信した時、ボンヤリと心根にあった神様が、確固たる教義として語られていることに、”そうなっていたのか…”という集団連帯感からくるような満足感、安心感も一時は有りましたが、本当の魂の平安というものは一度も感じたことはありませんでした。
やがて、そうした信仰生活に疑問、苦痛を感じ初め、本当の意味で求道を始めるようになったのは、私の心根に”先天的”な信仰が息づいていたからだと思います。
それは忘れられた魂の故郷からの音信でしょうか…
真の宗教信仰はその内なる楽園への回帰を呼び起こすものでしょう。
その感じ方、理解の有り様はそれぞれでしょうが、外から付加され、信じ従うものと違い、誰もが元々つながっているものです。
魂の無い人間は居ないのですから…
宗教も、信仰も数多有れど、こことつながらない如何なる宗教信仰もいたずらに自己の真態から切り離されるばかりです。
これからの宗教はその本来性に帰り、一人一人のものに還元されていくでしょう…。
どうしてそう思っていたのかは全く分かりません。
とにかくこうして生きていることが、死と共に終わってしまうという事がどういう事なのか全く理解出来なかったのです。
それが5歳くらいの時、父の「人間は死んで灰になって、なにもかもオシマイ…」と幼い私の感受性にこれでもか、これでもかと無慈悲な宣告を告げるような死についての説明を受けた時は”僕の世界は終わった…”、”どうも生まれた世界が違う”ように感じたものでした。
私の”信仰”が最大の危機に見舞われたのですが、ずっと今に至るまで”死んで終わりの宗教”に改宗した覚えはありません。
又、これは多分に宗教的だった母の影響だと思うのですが、神様というものが居て、いつも守られていると信じていました。
全く自然に受け入れられていたのです。多分これは上記の私の古来伝来の?”死の無い宗教”とつながりが有ると思います。
ずっと後にこの古代宗教の起源らしきものを垣間見た事が有りましたが…
誰でも幼い頃こういうものが芽生えていたのではないですか?
これが家庭や学校などで、頼みもしないのに科学やら倫理社会やらの新手の信仰の強要が始まり、心象に自然に根付いていたものは、そうであるべきものに取って代わられるに至ってしまう訳です。
やがて人によっては、人生に苦難、問題、疑問などから所謂宗教に関わるものも居ることでしょう。
そこには物心ついた時から根付いていた信仰の香りも伝わっているかもしれませんが、自分自身が自由に感じ、信じられていたものが退けられ、周囲の声に従う事が当たり前の事のように慣らされてしまうところから、信じなければならない権威におもねることになってしまうのです。自己信頼の欠落と共に…
このように元々心象に根付いているものと、他から付加されたものとはまるっきり違います。
前者には確たる対象が無い(という事は自己と切り離されていない)ので、信じ込み、従う必要がありません。特定の宗教思想、イデオロギーに依らず、各宗派のような分離した形になることも無く、個々の内面に根差したものなので、共同的なものになり得ても集団化することは有りません。(この違いは微妙なもののようで全く違う事です)
このように我々が”後天的”な宗教に依拠してしまうのは、確固たるものに従いたいという要求からでしょう。だが他から与えられた確固たる信仰には生き生きとした精神というものがありません。
信じなければならないものとは、自体がアヤフヤなものだからこそなのでしょう。
そして信じ込むことで、生きた精神は変質したり、冷却したりします。
私が学生時代M教団に入信した時、ボンヤリと心根にあった神様が、確固たる教義として語られていることに、”そうなっていたのか…”という集団連帯感からくるような満足感、安心感も一時は有りましたが、本当の魂の平安というものは一度も感じたことはありませんでした。
やがて、そうした信仰生活に疑問、苦痛を感じ初め、本当の意味で求道を始めるようになったのは、私の心根に”先天的”な信仰が息づいていたからだと思います。
それは忘れられた魂の故郷からの音信でしょうか…
真の宗教信仰はその内なる楽園への回帰を呼び起こすものでしょう。
その感じ方、理解の有り様はそれぞれでしょうが、外から付加され、信じ従うものと違い、誰もが元々つながっているものです。
魂の無い人間は居ないのですから…
宗教も、信仰も数多有れど、こことつながらない如何なる宗教信仰もいたずらに自己の真態から切り離されるばかりです。
これからの宗教はその本来性に帰り、一人一人のものに還元されていくでしょう…。