私が精神世界に本格的に目覚めた昭和53年、中学3年の頃からずっと私の生活の中心を占めていた音楽鑑賞の方は、ほとんどエーテルがかった空気の中に霞んでいました。
どんな音楽を聴いていたのかほとんど印象に残っていません。ただその年の秋の時期を除いて…
マリー・デュバ Marie Dubas。
ほとんどの人には馴染みの無い名前だと思います。しか―し…エディット・ピアフ…と訊いたら、シャンソン愛好家でなくとも御存知の方も多いことでしょう。デュバはピアフより一時代前、20年代後半から30年代にかけて全盛だった、シャンソン歌手で、そのピアフの本格的な売り出しの後押しをしたといわれ、ピアフはずっとデュバのことをリスペクトしていました。
誰でも、その出会いが衝撃的で忘れ難いアーティストって居ると思いますが、何を隠そう、私にとり、このマリー・デュバとの出会いが最もインパクトが有りました。
最初の出会いは、その年の春だったと思いますが、大学の音楽視聴室で、我が国でも紹介されていたLPで、初めの「私の兵隊さんーMon Legionnaire」(36年。翌年ピアフも吹き込んでいます)を聴いただけで早くも私の涙腺は崩壊してしまったのでした…おかげで次の授業をボイコットせざるを得なくなりました。ニヒルでクールな私の表向きイメージが台無しになりますからね…?
そしてこの歌手のものをまとめて聴いてみたいと、九月下旬に求めたのが仏Patheから出ていた二枚組LPで、売り出し中の頃から晩年の頃まで、彼女の軌跡を見て取れる内容なのです。
27年の「ペドロ―Pedro」でその人気を決定づけたのですが、この頃の彼女の歌唱にはオペレッタ出身であることを強く感じさせ、「幻想派シャンソン歌手」なる異名をとり、ユーモラスな空想を膨らませるような歌を得意にしていましたが、徐々に変化が表れ、30年代中頃には、もっと幅の広い、豊かな表現力を身に着けるようになり、「現実派シャンソン」(同時代の「ダミア」、「フレール」などの歌手がそう呼ばれて居ました)とも通じるような曲も歌うようになっていました。
その中に「幻覚のタンゴーLe Tango Stupefiant」(36年)という曲が有ります。何やら”幻想派云々を連想させる題ですが、これがもう、何とも生々しいリアルな、究極のデカダン!とキテるではありませんか!
クセが付いたら、もうどうしようもない
そこで漂白液を注射することにしたの
愛する彼を忘れるために…
私は何も食べず、何も飲まなかった
すると、翼が生えてきたの…ヒャ、ヒャ、ヒャッ…
失恋を紛らわそうと、モルヒネ、コカイン、ナフタリンなどを試して、トリップしてしまう女の歌です。タンゴ好きな私でもこんな妖しいアンサンブルは聴いたことがありません。終板の狂気の甲高い笑声が耳から離れない…
その他、このLPには本邦未紹介の曲も多数あり、「Les Nains」(37)、「Monsieur Est Parti En Voyage」(38)など(フランス語が分からないので詩の内容は分かりませんが…)もう、とにかく30年代後半にかけては(私にとり)名曲名唱のオンパレードで、ついに涙腺は完膚なきまでに崩壊してしまったのでした!
本当に有るのか、どうか分からないような空想的な事ばかりに頭が奪われていたあの頃…
本当に血の通った現実感覚というものを忘れかけていたようでした。
当たり前のような人間としての泣いたり、笑ったりの情感…久しぶりに思い出したのか…いや、その知られざる部分が私の中からそれが切り開かれ、表に顕れたのは、このマリー・デュバとの出会いを通してが初めてだったと思います…。
どんな音楽を聴いていたのかほとんど印象に残っていません。ただその年の秋の時期を除いて…
マリー・デュバ Marie Dubas。
ほとんどの人には馴染みの無い名前だと思います。しか―し…エディット・ピアフ…と訊いたら、シャンソン愛好家でなくとも御存知の方も多いことでしょう。デュバはピアフより一時代前、20年代後半から30年代にかけて全盛だった、シャンソン歌手で、そのピアフの本格的な売り出しの後押しをしたといわれ、ピアフはずっとデュバのことをリスペクトしていました。
誰でも、その出会いが衝撃的で忘れ難いアーティストって居ると思いますが、何を隠そう、私にとり、このマリー・デュバとの出会いが最もインパクトが有りました。
最初の出会いは、その年の春だったと思いますが、大学の音楽視聴室で、我が国でも紹介されていたLPで、初めの「私の兵隊さんーMon Legionnaire」(36年。翌年ピアフも吹き込んでいます)を聴いただけで早くも私の涙腺は崩壊してしまったのでした…おかげで次の授業をボイコットせざるを得なくなりました。ニヒルでクールな私の表向きイメージが台無しになりますからね…?
そしてこの歌手のものをまとめて聴いてみたいと、九月下旬に求めたのが仏Patheから出ていた二枚組LPで、売り出し中の頃から晩年の頃まで、彼女の軌跡を見て取れる内容なのです。
27年の「ペドロ―Pedro」でその人気を決定づけたのですが、この頃の彼女の歌唱にはオペレッタ出身であることを強く感じさせ、「幻想派シャンソン歌手」なる異名をとり、ユーモラスな空想を膨らませるような歌を得意にしていましたが、徐々に変化が表れ、30年代中頃には、もっと幅の広い、豊かな表現力を身に着けるようになり、「現実派シャンソン」(同時代の「ダミア」、「フレール」などの歌手がそう呼ばれて居ました)とも通じるような曲も歌うようになっていました。
その中に「幻覚のタンゴーLe Tango Stupefiant」(36年)という曲が有ります。何やら”幻想派云々を連想させる題ですが、これがもう、何とも生々しいリアルな、究極のデカダン!とキテるではありませんか!
クセが付いたら、もうどうしようもない
そこで漂白液を注射することにしたの
愛する彼を忘れるために…
私は何も食べず、何も飲まなかった
すると、翼が生えてきたの…ヒャ、ヒャ、ヒャッ…
失恋を紛らわそうと、モルヒネ、コカイン、ナフタリンなどを試して、トリップしてしまう女の歌です。タンゴ好きな私でもこんな妖しいアンサンブルは聴いたことがありません。終板の狂気の甲高い笑声が耳から離れない…
その他、このLPには本邦未紹介の曲も多数あり、「Les Nains」(37)、「Monsieur Est Parti En Voyage」(38)など(フランス語が分からないので詩の内容は分かりませんが…)もう、とにかく30年代後半にかけては(私にとり)名曲名唱のオンパレードで、ついに涙腺は完膚なきまでに崩壊してしまったのでした!
本当に有るのか、どうか分からないような空想的な事ばかりに頭が奪われていたあの頃…
本当に血の通った現実感覚というものを忘れかけていたようでした。
当たり前のような人間としての泣いたり、笑ったりの情感…久しぶりに思い出したのか…いや、その知られざる部分が私の中からそれが切り開かれ、表に顕れたのは、このマリー・デュバとの出会いを通してが初めてだったと思います…。