人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

全一なるものの証

2017-07-02 16:12:11 | 現臨、ハタラキ
仏陀の悟道、キリストの福音、老子の無為自然の道、わがカムナガラの道...
道の教えは古今東西数多あれど、"一にして全てなるもの"を証していないものは無いのではないでしょうか?
世に仏教と言われ、キリスト教と言われる宗派があるとされています。
だが、その内実に息づいているものは、ただ全一の道があるのみでしょう。
一つの道に全てが包まれている、そこにも、ここにもまるごとが遍在している...あらゆる相対に絶して、全てにあまねく通っているのが、全一というものです。
全一の道に相対対立などあるかろうはずがありません。
そして、それは又今もなお、現実に生きてハタライているものの証でないものはないでしょう。
これを宗教といった、枠組みで納めることなど出来ようはずがありません。
仏教、キリスト教等を対象化して、此岸から向こうを眺めるように、前方にあるものを追いかけるように求めて続けても、生きた全一なるものは捉えられようはずもありません。
どうしたら、そういう心境になれるのか...目覚めに、光に預かれるのか...
観念的に教えを信じたらよい...心がけを変えたらよい...もっともらしい科学的な説明で納得する...
頭は納得しても、この身はちっとも頷いてはくれない...
それもそのはず、生きたハタラキがここに現存していないのです。
否、そもそも生ける現存、現臨無くしてあなたも私も現存すらしていないのです。
私が現存する時、彼岸に求めていた神、真理を目の当たりにするのです。
この問題だらけの私が一歩一歩業因縁を消し去って、神に近付こうと図ろうとしても、このなにもかもが行き詰まり、矛盾を抱えたこのシャバがそうはさせてくれません。
業というものに一度でも、向き合い、そこで自分の限界というものを味わった人ならお分かりのように、それは一個人がどうこう出来る問題ではないのです。
この世界の現実が如実に物語っているではありませんかi あなたや私が苦しんでいるのでは無い...人類が苦しんでいるのですi
だが...裏を返せば、この事は人類が目覚めれば、全体が救われるなら、あなたも私も目覚め、救われるということを意味してはいないでしょうか...又自分が目覚めたように感じたならば、そこには普遍世界の現成というものが開かれるのではあるまいか...
自己が悟る、誰それは目覚めているという...しかし、一個人の悟りなどというものがあり得るでしょうか? それは、一にして全てに起こることだから...
一コの自分が生きているんじゃない...全体だけでもない...一にして全てのものが生きているのです。
握っているものを手放せば...否、手放してくれるものがある...ハタラキにゆだねるのみ...

このブログで幾度か書かされていることですが、どういうものが言い表そうと促しているのかは、いつもヒシヒシと身に覚えさせられています。
このブログで私が頻繁に使っている、"ハタラキ"、"身に覚える"といった表現は、いずれも私が縁を持った「大調和協会」で慣用となっている言葉から借りているものです。
イイカゲンなもので、その意味合いは、同会で理解されている通りのものなのかどうかは分かりません。何しろそこでの私の立ち位置というものは、単なるオブザーバーの域を出ないものだったのですから...
ただ、私の気持ちには、このまま片田舎の一弱小教団の事として埋もれたままになってしまうことには、どうにも我慢のならない思いにさせられるものがあります。
その内実は、ずっと私の内部で、そこと具体的に縁付く以前から息づいているものだからです。
私は、ただその深みからの促しにうち任していく他はありません。
全ての生きた道は、どのような現れであれ、表に顕れ出ざるを得ません。我々がそれらに触れているものは、その証ばかりなのですから...この見える現実世界の普遍的領域へと歩み出てくる...その音が聞こえてくる...その確かな手応えを感じながら...。


コメント
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