人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生の教師と見えざる導師③

2017-07-23 13:47:34 | 人生の教師
私はこの世の如何なる精神的団体とも、全身全霊をもって共振したことも、その関わりは根付くことはなかった...
これには何度か触れているように、大学生だった頃入信していた新宗教で受けた、苦い経験がずっと心根に横たわっていたことに起因しているのです。
ただ、私における人生の教師たち、導師たちに対するものは又別のものがあったのです。
もうその出合いから数十年も経っているというのに、今もなおアリアリとあのジンジンとした高揚感を覚えるのはどうしてなのでしょうか?
これは現臨感とでもいうようなものなのですが...そうなのですi
私はこれらの存在方を通じて現臨と出合わされていたのですi
そして私は、どんな宗教、思想、肉身を持った導師にも全身全霊を挙げて帰依、明け渡すことはなかったのですが、この現臨ー見えざる導師ーの前には木っ端微塵になってしまったのでした。この予感というものは、先の出合いの中で示されていたのです。
精神的団体との関わりの中で、その自己の明け渡しの契機にも似た経験が全然なかった訳でもありません。
ここに、周囲の人からは「この団体、ここにあなたが求めているものがあったのですねえ...」と、思わせるものがあるらしいのですが...
"こことは一体どこなのかi このものに無い、ここというものがあるのかi"
私はどこまでも現臨に捉えられていたのです。
こう言うと、何か訝しく感じて「あなたには何ものかが降りてくるのか、臨むのか知らないが、私にはケッタイなことになってるあなたしか見えないが...」という人も居るかもしれません。
私がいくら「このものに有る、ここがあった...アンタ、ケッタイな目をして何を見てんだi」と言おうが、一人のケッタイなこと言う御仁の一主観と見なされてしまうのです。
しかし、平成4年春、大調和協会神戸支部で、私が"爆発"した時のことは少し様相が違っていました。
あるハタラキがその場に立ち込めているのが感取されたのです。
あの爆発というのは、私の隣で集会の感想を述べていたKさんの言葉が引き金となり、いささか鬱積したものを抱えていた私に、その思いを越えたものが引火したことで起きたことです。
それは私の一主観というものを越えて、客観に現存するものが応現した、ということを物語っているのです。
これは協会のその名告りの根幹ともいうべきものなのですが、少なくとも私がそういうものを目の当たりにしたのは、その時なのでした(最初にして最後だったか?)。
その後、クエーカーの特別集会でも似たようなことがありました(爆発した人は誰も居ません)が、実感されるのは現臨のより顕わなる展開というものです。
それはしかし、私が初めて現臨に捉えられていた時にハッキリ予感させられていたことです。

"人々は知らない、見ていない...自分があるという、その自分たらしめているものを...世界を、歴史を、宇宙をたらしめているものを...
このもの無くして自分も世界も何もかもが無いというのに..."
そして、頭が真っ白になりそうな中で、見えざる導師の声なき声は確かにこう告げたのでした。
"私はお前の全ての縁の中に私自らを顕わす。目にものを見せてやるから、とくと見ておけi" と...

私は最近、この予感の意味するところは、"私の内面を切り開くことになった私の道標となったものが、現つのものになる" ということなのか...ということをヒシヒシと感じているのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする