人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ミタマの立て分け

2017-07-09 12:45:39 | スピリチュアル
「神も仏も鬼も邪も悪魔も、残らず自分が招くのだ。決して外から襲来するものでない。盗賊の用意に戸締まりをするよりも、心に盗賊を招かぬやうにするのが肝要だ。一切万事残らず自分の心から招くものだからなア」
(出口王仁三郎/霊界物語.第25巻.第5章)

多くの人々の関心を集める、大衆に開かれた宗教などの中心人物は、多かれ少なかれトリックスターの側面が伺われるものです。
その人物そのものにそうした意図はなくとも、その周辺には様々な思念が取り巻き、それ自体が一つの集合体となって、個々のそれに応じた因縁の魂を引き寄せ、共感、反感を交えながら各々然るべき運命生を展開していくのでしょう。
このことを端的に示されたのは、出口聖師を中心とした大本教でしょう。
"世の大立て替へ"、"人民は三分になるぞよ"の予言などで、多くの衆人を集めた大本とは、実は、"ミタマの立て替へ、立て分け"をそこに内包させた集団だったのです。
出口聖師、日月神示、エドガー.ケーシー、バシャール...今日でもこれらの予言的言辞には、多くの人の関心が集まります。
では、それが外れたら..."インチキだ...騙された..." 私も随分とそんな言葉を聞かされました。"その日はいつ来るのか?"と、眼をギラギラさせて聞きたがっていたのは誰だったのか?
予言だけじゃありません。"私の前世は?" "超能力を得る方法は?"あるいは、これが肝心、"おかげは?"...
"何のためにもならないじゃないかi バシャール、このハゲーッi"
宗教、スピ的なことに熱心だった人が、ある時から手のひらを返したように、アンチ宗教、スピになったり、無神論者になってしまう人も居ます。
このような人たちは、そもそもその宗教、スピに何を求めていたのでしょうか?
ご利益、科学的実証性、特別な力、権威...叶えられなければ、ポイ...(だから...ポイされちまう...)
中には"熱心に信仰していたら憑霊された..."と不満をぶつける人も居ます。
これは単純な問題ではないでしょうが、その人は狂信、盲信していた、という自覚があります。そこに依存的な心に依りつくものが寄ってくる、ということが伺われます。
その道に背を向けてしまう人は、一度でもその道に共感を寄せたことはなかったのでしょうか?
共感と反感というものは、これまで書いてきた通り、私の精神的な歩みにおいて、性懲りもなく繰り返して来たことで、他人事でなく、前記したような裏切られた、幻滅した気分というものも何度か味会わされたことがあります。(ほとんどは団体との関わりにまつわるものです)
しかし...全身が揺すぶられるような、自ずと涙があふれでてくるような共感というものは、どういうことがあっても覆られることがありません。
共感している自分自身に不満や疑念が向けられるだろうか?
もし、そうだとしたらそれは自己に対するばかりか、共感した物柄の向こうにある、言葉を越えたものに対する不信、裏切りというものでしょう。
信仰とか、宗教的帰依と称されるものが、なんと、自分の表層的都合、思惑、薄っぺらな観念の上滑り、頑なな自己の思念、信念といったものと結び付けられていることでしょう...。
そこには自己への、その本なる神的なものへの信は無いのです。言い換えれば主体性の欠落です。
意識的でないところに主体はありません。意識が向かうままが自己の運命生というものでしょう。
意識の有り様次第の人生、世界のゆくえ..."神に不足はあるまいぞ..."
このミタマの立て分けのいよいよ激しく、厳しくなってきているのを天象、地象、心象に強く覚えます。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする