神というものは、一神である、多神である、いや理神である...
神に至るには数種のレベルがある...
神に、悟りに至るには、これこれの信仰、方法によらねばならない...。
いつも書いていることですが、何を信じようと、何を行じようと勝手ですが、神御自らがそういうことを告げたのでしょうか?
大方は、真の確信、安心を見出だしている訳でも、又そのように洞察がなされている訳でもなく、所与の教えなりに迎合しているばかりなのではないですか。
よくよく思慮も無しに、他所からの言葉に躍らされるのは、実にキケンなことと言わざるを得ません。
中には、ハタ.ヨーガぐらいならともかく、覚醒ということ自体を目的に瞑想に赴こうとする者も見受けられます。
取り返しのつかない火傷を負うような事態にならなければいいですが...
こういう向きにはクンダリーニが上昇しない方がむしろ幸運というべきでしょう。
ここには、神について語られることはあっても、実際には神的なものは臨んでいないのです。
神が臨む以前に、思念によって神の観念が取り込まれ、思念によって固められ、心に定見による砦のようなものが築かれてしまうのです。
そして、ますます神的現臨が流入する道は閉ざされ、確証のない、思い思いの空想、妄想に馳せていくばかりになります。
現臨が臨むということは、思念から離れるということにも関わらず...
チッポケな頭だけの思念、自力的な、自己のみに帰された力、自己の限界...そこにこそ、自己を越えたつながりへの気付き、目覚めというものがあるのです。
神的なものを抜きにした、そこから切り離されたどんな信仰も修行も覚醒も、その内実は失われ、信仰のための信仰...独り歩きしたものになってしまうのです。
そもそも自己の限界というものに突き当たらなければ、本当には自己を越えた神的なものへの発心というものは起きてこないのではありませんか?
そこに祈りというものが生まれて来ます。
神がお手軽に捉えられ、自己の限界が示されることも無いのなら、祈り、神信心というものは本当には出てこないでしょう。
先に"洞察"ということを言いましたが、これは何も"他所からの言葉を受け売りばかりしていないで、自分自身で考える"ということばかりを言っている訳ではありません。
"考える"というのは、限界内の思考を巡らすことですからね。
洞察ーインサイトーというのは、通常理解されているような、意念的に思考を巡らすことというよりも、内を照らし出すハタラキのことでしょう。
表層的な思いに隠れた本性的な知恵です。
一方で恩寵という、天来の超越的な響きを持ったハタラキがあり、上からも、下(中)からも神知が与えられるのです。
いずれにしても、それは神そのものを求めるという、心持ちから生まれるものでしょう。
神そのものを求めるということは、安易に思念で捉えられた神、砦信仰から離れるということです。
諸々の定見があったままで、本当に生きたものが流れてくることがありません。
今は、既存のものはますます衰退してゆき、隠れていた本来的なものがますます顕わになってくる時節ではないでしょうか...。
神に至るには数種のレベルがある...
神に、悟りに至るには、これこれの信仰、方法によらねばならない...。
いつも書いていることですが、何を信じようと、何を行じようと勝手ですが、神御自らがそういうことを告げたのでしょうか?
大方は、真の確信、安心を見出だしている訳でも、又そのように洞察がなされている訳でもなく、所与の教えなりに迎合しているばかりなのではないですか。
よくよく思慮も無しに、他所からの言葉に躍らされるのは、実にキケンなことと言わざるを得ません。
中には、ハタ.ヨーガぐらいならともかく、覚醒ということ自体を目的に瞑想に赴こうとする者も見受けられます。
取り返しのつかない火傷を負うような事態にならなければいいですが...
こういう向きにはクンダリーニが上昇しない方がむしろ幸運というべきでしょう。
ここには、神について語られることはあっても、実際には神的なものは臨んでいないのです。
神が臨む以前に、思念によって神の観念が取り込まれ、思念によって固められ、心に定見による砦のようなものが築かれてしまうのです。
そして、ますます神的現臨が流入する道は閉ざされ、確証のない、思い思いの空想、妄想に馳せていくばかりになります。
現臨が臨むということは、思念から離れるということにも関わらず...
チッポケな頭だけの思念、自力的な、自己のみに帰された力、自己の限界...そこにこそ、自己を越えたつながりへの気付き、目覚めというものがあるのです。
神的なものを抜きにした、そこから切り離されたどんな信仰も修行も覚醒も、その内実は失われ、信仰のための信仰...独り歩きしたものになってしまうのです。
そもそも自己の限界というものに突き当たらなければ、本当には自己を越えた神的なものへの発心というものは起きてこないのではありませんか?
そこに祈りというものが生まれて来ます。
神がお手軽に捉えられ、自己の限界が示されることも無いのなら、祈り、神信心というものは本当には出てこないでしょう。
先に"洞察"ということを言いましたが、これは何も"他所からの言葉を受け売りばかりしていないで、自分自身で考える"ということばかりを言っている訳ではありません。
"考える"というのは、限界内の思考を巡らすことですからね。
洞察ーインサイトーというのは、通常理解されているような、意念的に思考を巡らすことというよりも、内を照らし出すハタラキのことでしょう。
表層的な思いに隠れた本性的な知恵です。
一方で恩寵という、天来の超越的な響きを持ったハタラキがあり、上からも、下(中)からも神知が与えられるのです。
いずれにしても、それは神そのものを求めるという、心持ちから生まれるものでしょう。
神そのものを求めるということは、安易に思念で捉えられた神、砦信仰から離れるということです。
諸々の定見があったままで、本当に生きたものが流れてくることがありません。
今は、既存のものはますます衰退してゆき、隠れていた本来的なものがますます顕わになってくる時節ではないでしょうか...。