人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自己、二元、非二元

2017-07-06 16:57:14 | 哲学・思想
"覚醒、エンライトメントというものは、一個人に起こるものではない"とはいえ、顕れとしての個人にその発露があるというのも事実でしょう。
これは、隠れた大本が個的顕れを管として表出されると言ってもいいでしょう。
本というものがあれば、末もある...本末を一貫したつながりがあるのです。
今日のノンデュアリティで言う、"個人はいない"というのは、"それだけで成っている分離した個体はない"ということでしょ...紋切り型で言うからあらぬ混乱を招くのです。これを裏返せば、分離したように見える個人もある、ということです。
個我、人格...これをめぐって昔から精神的道で観方、感じ方が錯綜していますが、わかりきっていることは、今これを書いているのは私であり、読まれているのも"あなたという私"だということです。私でなければ、何だというのかi 別の何か、寄生体が成り済ましているのかi
"私がここにある、ここに生きている"この事が蔑ろにされたところに、あなたの人生も、世界も、宇宙も、そして神も存在しません。
神、神的なものの実感とは? こうしたことのこれ以上無いくらいの、強烈な実感(これは自分であって自分でない、我ならぬ我という逆説的なものです)とともにあるのです。
私、自己なるものと神なるものとは実に相即しているのです。
しかし...
神と繋がることを説いている、多くの宗教(団体)ほどこの事実に昏いものは無い、と言わねばなりませんi
神的なものとの邂逅どころか、ますます遠ざかり、見えなくさせてしまうばかりです。
神との関わりにおいて、生き、生かされていくはずの自己というものが覆い隠されてしまうからです。
そこでは、神信仰に隠れて自己への信頼というものがなおざりにされてしまうのです。
そして実際にそこで信じ、奉られているのは神そのものでなく、それに疑せられた教祖、教義、団体...この擬似的神を形成しているのは、ひっきょう、それらにまつわる思念です。
それらの決まりきった、反復されるばかりの言辞には、思念が取り巻いていて命がありません。
それは、我々の内なる実存の光に照らされてこそ生きたものとなるのです。
信者は自己に意識が向けられることなく、そこから逃避するように教団主導の所与の教義、システムに依存して行きます。
自己と神の間には、幾つもの侠雑物が設えられ、障壁となり、相即されることがありません。
生きた人格は、思念の集合体に飲み込まれ、主体的関わりが閉ざされる...個的なものは、全体的なものに圧してしまうのです。
この全体的なものは、あの神秘的つながりの擬似的写しであれ、似て非なる客体であり、その向かう先は、生きた人格にとっては、天と地ほどの相異なる事態へと導かれていきます。
生きた精神の死か、全的生への蘇り、目覚めか...

私の中で今日のノンデュアリティの台頭に対し、複雑な思いが去来しています。
宗教というものが、上記したように神と人間との関係を明かにせず、分離した状態を強めていくばかりだったこと...ノンデュアリティは、取りも直さずこのニ元性を越える事を謳っている訳ですが、この事は、確かに今日の人の思い、人の手になる中間物を越えて直接的に神的なものにつながることが出来る、という時代相というものを浮き彫りにしている、と言えるでしょう。
だが、そこには自己に向き合おうとしない精神が、自己を永遠の虚無へと消し去ってしまう、という誘惑も垣間見ることが出来ます。
個我、自己というものは成程問題だらけのものです。悪の元凶なのかもしれない...かように人が背け、無きものにしようとせずにおれないものなのかもしれない...
だが、神的なものはこの問題の、悪の物種を通して示現してくるのですi
人間の人格こそ神の仮面であり、そこに神の種が隠されているのですi 自己を否定することは神の否定を意味しているのです...。




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