人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生の裏側の実現

2017-11-01 00:00:41 | 哲学・思想
「真に実在的な世界は認識され得ないが、非実在的な世界は認識され得るのである」
「普遍的なものは、個別的なものを高めて実存的内容を充たす」
(ベルジャーエフ「始源と終末」)

自己実現、真我の実現、神の国の実現...精神的な道で言い表されている、こうした実現ということですが、それは例えばある建築計画が実際の建物の建立となって実現することとは、かなり趣が違うものでしょう。
現物がそこに実現化されているのは誰が見ても分かることです。
科学の分野では、それまで仮説に過ぎないとされていたものが、客観的に立証されることにもなれば、ある真理が実現されたと見なされるでしょうか?
しかし、我々の精神の領域に関わることについては、お分かりのようにどんな証明も出来得ないことなのです。
それが客観的に証明され、衆人に真理の実現と受け入れられてしまったとしたら、これほどのギマンは無いでしょう。
私が例えば"神的なハタラキが、普遍調和世界が目の当たりに見えるように顕になる..." とか形容して表現しているものは、全くそういうことを意味していないのは言うまでもありません。
神的普遍性というものは、所謂"普遍妥当性"とは全く無関係なのです。
何処にも、それだけで衆目の一致点というものを見出すことは不可能でしょう。
それは、どこまでも我々の主体、実存に開かれるものなのです。
言葉で表すとどうしても抽象的になってしまいますが、この精神的実現というのは、意味がどうとかでなく、全くこの我々の主体というもの自体が現存する、という風にしか言い表すことの出来ないものです。
何がどうなるのか...そうなってみなきゃ分からないことです。
普遍性とここで言っていることもそうです。
主体。これを主観と言い換えてしまうと、ニュアンスがいささか違ってきてしまいます。
主観というと、客観の対意語のように見なされ、個々の内面の領域に限定されるように受け取られてしまうことでしょう。
主体的なものが実現されると、主観ー客観というものは、思われたものでなくなります。
主体というもの自体、この我々一人一人の内面性と切り離されるものではありません。
だが、主体は個我を越えるのです。神的ハタラキは個々の内面を満たし、それを越え出て我々の共同性にも生きてハタライてやみません。
これを言い換えれば、本源的自他一体なるもの、我々の内なる共同性ーベルジャーエフの言うソボールノスチーの顕現...我々の内なる神人の自己実現ということになるでしょうか?
このように言えば、冒頭の自己、真我、神の国の実現とは、一連なりのことであることがお分かりでしょう。
少なくとも私自身にとっては全くそうなのです。
この場合、実現というのは、まさしく神的実在のこの現実世界への示現に他ならないのです。
私がしばしば、このものを"現臨"と呼んでいるのもこうした意味合いがあります。
それは、その個々の内奥より表層意識への転出という、覚醒の事態というものが既にそうであり、さらに個的主体性が関係的主体性へと歩み出される、ということは、ずっと私の精神的道程では示されていたことなのです。
しかし、この示現のプロセスはまだ尚、進行中であると言わねばならないでしょう。
今後ますます、より具現化、具体性を伴った、我々の血肉に直に触れ得るような展開もあるでしょう。
衆人の目にもありやかに映ってくるかもしれません。
それはしかし、客観的証明を伴うものとはやはり無縁でしょう。
どこまでもそれは、神的ハタラキが我々の主体的実存を通して、開示されることと共にあるものでしょう。
言うなれば、人生の裏側の実現です。それは具体的には我々の人間関係を通して示されるものかもしれません。
神の実在を証するものは固形の事物でも、紙に書かれ得る実証データでもなく、生身の人間人格であり、我々の具体的な人生にこそ示されるものでしょう。
そこでは衆人の思いの中のお約束ごとのようなものでない、誰にでも自明なことが証されることでしょう。








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