人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

全世的な幸福を求めて

2017-11-27 20:20:48 | スピリチュアル
私が初めて思いを超えた、人生の裏側ともいうべき領域に踏み入れてしまった、そこには喩えようのない充足感、幸福感がありました。
これをどう表現していいのか、言葉が見つからないのですが、為そうとか、知ろうとかしなくとも、そうなっている、知らされているという風にしか言えないのです。
この事に関して、意識のある次元(アストラル次元と言われるものか?)で思ったこと、欲したものが直ちに実現化するといったこととは違うことを言っています。(これはしかし、ある変容の中間的過程と見ることも出来るでしょう)
そうした思い、欲求というもの自体生じて来ないのですから...思う、望む以前にそれはあるのです。
何故そういう風に感じられるのかと言えば、それまでの現世での人生というものが、思った通り、望んだ通りには事が運んで来ないからです。
言葉を変えれば...もし、このバカバカしい、悩み多き世の中の経験というものが無ければ、おそらくその喩えようのない充足感、幸福感というものを味わうことが出来ないかもしれないのです。
この表側と裏側の関係というものは、実に一方の面無しには映し出されない、合わせ鏡のようなものと言えるでしょう。
思い通り、望んだ通りに行かないこの世の幸福というものは、それを得たとしてその瞬間に充足感はあってもすぐに過ぎ去り、それを失うことになれば、かえってその事が不幸、苦しみを背負いこむ要因になってしまうものです。
自体が相対的なもので、元々そこにある大本の幸福ともいうべきものとは異なっているのです。それでも、その幸、不幸を超えた根底には変わらない絶対的幸福というものも息づいているものだと、私は感じています。
それはこの世的な、その幸福の対象となる事象ー富であれ、名声であれ、恋人であれーに囚われていると中々気が付かないものでしょう。
その具体的な事象、事物が無ければ幸福になれないという強固な思い込みもあります。
そして又、欲望というものがそれを見えなくさせてしまうのでしょう。
幸福の対象となるものは、幸福そのものの媒体のようなものでしょうか?
あの喩えようのない、充足感、幸福感というものは、確かに今生では味わえないものではありました。
しかし、私にはずっと身に覚えられているものだったのです。前世からのものとか言うつもりなどありませんが...
それを言うのなら"全世"的なものと言っていいかもしれません。
全世とは裏も表もあるいは前世?も引っくるめてのものという意味です。
この世的な幸福について言えば、それはあまりにもその時々の一瞬のうちに過ぎ去るような部分的なものに映りますが、その点のように感じていたものが、あたかも幸福の総体を目の当たりにしているように息づいているのです。
そして、ほとんどの時間を占めている、無味乾燥した日常というものが夢のように感じるのです。
全世的幸福は神的なものと共にあるものであり、現在は徐々にそれが顕わになっていく過程にあるのでしょう。
(最近、善きにつけ悪きにつけ、思ったことがすぐに跳ね返って来るように、そのサイクルが速まっているように感じるのは、現世がアストラル化?してきていることの表れなのでしょうか?)
段々人生も世界も思われたものでなくなってくる...この見える世界のままが、見えない世界の表れに化してゆくのを感じています。

私はあの至福の世界からこの現実に戻りつつあった時、微睡みの中で"あの何かを求めての、なろうとすることの奮闘努力、求めても得られない、そうなれないことの苦悩は一体何だったのだろうか?"と感じたものです。
それでも、私はもう泣いたり笑ったり、フツーに生きることが出来なくなることが堪らなく感じていました。それは本当には幸福というものを味わえなくなることを意味していたのかも分かりません。

コメント
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