覚醒とかワンネス体験とか言われている事態というのは、我々がこの現実世界におけるものとは違う、如何なる概念によっても捉えられない、感覚的なものでしか言い表せないような意識状態にあることを伝えているのです。
従って、そこには各々異なった観方、感じ方というものがあるのは当然のことで、そのこと自体なんら否定されたりする理由は無いと思います。
その大体が相対次元を超えた領域の消息を伝えている訳で、"それは間違ってますi"という決めつけた批判というのは、自体ズレたものと言っていいでしょう。
私がしばしば、そういうズレた、批判めいたようなことを書いたりするのは、そこからこの相対現実に下ろされたところで、"私という個人はいないのですi"などと表明される、決めつけた物言いに対してのものなのです。こうしたことは、言葉をもって伝える上ではどうしても避けて通れない問題でしょう。
ここでその思考を超えた領域について書こうとしていることについても、私の相対的観方、感じ方が投影されることもある、ということをお含みいただければと思っています。
で、このワンネスというものですが、"宇宙と一つになった..."、という感覚を伝えているものが多い中で、私はそこにある有機的集合体というか、内なる共同体とも言うべきものを伝えているものは実に少ないのは、どういう訳なんだろう?といつも感じているのです。
いつも言っている普遍性について、私はそれを目の当たりにした時に実感したのです。
全き自由、それからそう、愛というのもそうです。そういう感覚というものは、"全て一なるものがあるだけ"という消息からは、生まれてこないものでしょう。(それ自体間違ってないですよi)
"そこには葡萄状を感じさせる有機的つながりがある...私は私を生きており、そのつながりにある数多の他己もその生を享受している、そこに何らの障壁も妨げるものもあり得ない..." この否定しようの無い、強烈な実感こそが普遍性、自由、愛というものなのです。
この個々のつながり、一体性というものをもたらしているもの...それがそう、ワンネスというものなのでしょう。
この有機的関係性は、"全一的"としか言い様のないものです。
私はたびたび触れているように、こうした消息のことを、その目の当たりにした時以前から、言い知れない魂の共感を覚えていたのです。
具体的には、小池辰雄先生の霊なるキリストに連なるエクレシア(霊的、原初的教会)の教説、ベルジャーエフの内なる普遍共同体ーソボールノスチーの教説、大調和協会の自他一貫の自然調和世界の教説などとの縁によって、私の内に呼び覚まされたのです。
ここで考えられるのは、私のその普遍的有機体に目覚まされたことには、そこにこれらの先験的なことが投影されていたかもしれないということです。
全然無いとは言い切れませんが、それよりもその時の、"私に共感を呼び起こしたものは、このものだったのだi..."という実感の方が大きかったのです。
いや、もっと言えば、それは私の物心ついた時からこの私を取り巻く社会、人間関係への"しっくりこない感"と裏表にあるものとして、漠然と感じてきたものと言ってもいいでしょう。
そうですi それは全くこの救いようのない縺れ、もたれあい、しがらみ...業苦地獄の裏返しの世界なのですi
先の普遍性、自由、愛の強烈なインパクトが如何なるものか、お分かり頂けるでしょうか?
私はますますこのバカバカしい世の中というものが、彼の普遍調和世界の写し絵である、ということを強く思わざるを得なくなってきました。
我が国でこの世をうつし(顕し)世と言われる通りです。そこには成る程幻想に満ち溢れていて、それに性懲りもなくかかずり続けて、がんじがらめに陥っている私こそは、いつも"バカを見ている見本"みたいなものでしょう。
だが、写し絵というものは、見えない何かが映し出される時、全く別様のものに見えてくるものです。
見たままからは分からない何かが...そのものが顕れ、写し出され裏表が合わさって一つとなるものでしょう。
それは誰しもの内に秘められているもの...隠されているものは必ず表れるのです。
このうつし世は、その見えないものの顕現への我々の呼応によって初めて、世の始めに約束された"我々の世界"となるのでしょう...。
従って、そこには各々異なった観方、感じ方というものがあるのは当然のことで、そのこと自体なんら否定されたりする理由は無いと思います。
その大体が相対次元を超えた領域の消息を伝えている訳で、"それは間違ってますi"という決めつけた批判というのは、自体ズレたものと言っていいでしょう。
私がしばしば、そういうズレた、批判めいたようなことを書いたりするのは、そこからこの相対現実に下ろされたところで、"私という個人はいないのですi"などと表明される、決めつけた物言いに対してのものなのです。こうしたことは、言葉をもって伝える上ではどうしても避けて通れない問題でしょう。
ここでその思考を超えた領域について書こうとしていることについても、私の相対的観方、感じ方が投影されることもある、ということをお含みいただければと思っています。
で、このワンネスというものですが、"宇宙と一つになった..."、という感覚を伝えているものが多い中で、私はそこにある有機的集合体というか、内なる共同体とも言うべきものを伝えているものは実に少ないのは、どういう訳なんだろう?といつも感じているのです。
いつも言っている普遍性について、私はそれを目の当たりにした時に実感したのです。
全き自由、それからそう、愛というのもそうです。そういう感覚というものは、"全て一なるものがあるだけ"という消息からは、生まれてこないものでしょう。(それ自体間違ってないですよi)
"そこには葡萄状を感じさせる有機的つながりがある...私は私を生きており、そのつながりにある数多の他己もその生を享受している、そこに何らの障壁も妨げるものもあり得ない..." この否定しようの無い、強烈な実感こそが普遍性、自由、愛というものなのです。
この個々のつながり、一体性というものをもたらしているもの...それがそう、ワンネスというものなのでしょう。
この有機的関係性は、"全一的"としか言い様のないものです。
私はたびたび触れているように、こうした消息のことを、その目の当たりにした時以前から、言い知れない魂の共感を覚えていたのです。
具体的には、小池辰雄先生の霊なるキリストに連なるエクレシア(霊的、原初的教会)の教説、ベルジャーエフの内なる普遍共同体ーソボールノスチーの教説、大調和協会の自他一貫の自然調和世界の教説などとの縁によって、私の内に呼び覚まされたのです。
ここで考えられるのは、私のその普遍的有機体に目覚まされたことには、そこにこれらの先験的なことが投影されていたかもしれないということです。
全然無いとは言い切れませんが、それよりもその時の、"私に共感を呼び起こしたものは、このものだったのだi..."という実感の方が大きかったのです。
いや、もっと言えば、それは私の物心ついた時からこの私を取り巻く社会、人間関係への"しっくりこない感"と裏表にあるものとして、漠然と感じてきたものと言ってもいいでしょう。
そうですi それは全くこの救いようのない縺れ、もたれあい、しがらみ...業苦地獄の裏返しの世界なのですi
先の普遍性、自由、愛の強烈なインパクトが如何なるものか、お分かり頂けるでしょうか?
私はますますこのバカバカしい世の中というものが、彼の普遍調和世界の写し絵である、ということを強く思わざるを得なくなってきました。
我が国でこの世をうつし(顕し)世と言われる通りです。そこには成る程幻想に満ち溢れていて、それに性懲りもなくかかずり続けて、がんじがらめに陥っている私こそは、いつも"バカを見ている見本"みたいなものでしょう。
だが、写し絵というものは、見えない何かが映し出される時、全く別様のものに見えてくるものです。
見たままからは分からない何かが...そのものが顕れ、写し出され裏表が合わさって一つとなるものでしょう。
それは誰しもの内に秘められているもの...隠されているものは必ず表れるのです。
このうつし世は、その見えないものの顕現への我々の呼応によって初めて、世の始めに約束された"我々の世界"となるのでしょう...。