「私は二つの世界に住んでいる。すなわち私は、私自身の本来の世界たる主観的世界に住んでおり、また私のために存在するが、同時には私には異質の客観的世界にも住んでいるのである。」(ベルジャーエフ「始源と終末」.行路社刊)
何度も触れているように、宗教やスピ界隈には、前世であるとか、来ない先のアセンションとか、確かめようのないことを無批判に迎合してしまう傾向が昔からあります。
これはあるドグマを狂信的に信じ込むことと同じように、強固な"信仰"が頭脳を支配しているためでしょう。どちらも信仰依存の表れなのです。
私は、しかしその前世、アセンションに関することも、短絡的な実在信仰に囚われることはありませんが、それ自体否定してる訳ではありません。
私自身、"人生の裏側"に踏み込んでしまった時、"それらしきこと"を垣間見たことがあるからです。
ただし、そのことを客観的事実の表明のように、"過去のいついつの時代にかくのような人物として生きていた"とか"何年後のいついつにそういうことが起こる"というように表現することは不可能だし、そうすることに意味があることとも思えないのです。
というのは、そうしたことは、この見える現実で見ていたことでなく、"裏側"へとシフトした、変容された意識状態に、異なった現実にあって接触していた、ということなのです。
短絡的にそうした言説に迎合してしまう人というのは、このことを全く理解していないのです。
借り物にすぎない他人の言葉に寄生して、思われたままの観念の世界で"見た、分かった"つもりになっているだけなのです。
まず変容された領域においては、時間というものが全く思われたものではありません。
私が現臨に捉えられる時にはいつも、世界の終末を目の当たりにしたかのようになるのですが、これが思われた時間の終焉を感じさせることなのです。
そして内側から何かが開かれるや、こんな感じになってしまいます。
「今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」(金光大神)
この言葉などは、全く目覚めの瞬間のことを端的に言い表しているようで、私に直に初めて天地の創造が始まったかのように感じられるのです。
この領域では過去、未来と思われていたことも現在に直結されるのです。(このことを今の悟り系スピのように"今、ここしかない"と言い切れるようには私には感じませんが...とにかく現在と切り離されない、ということは言えることです)
そして私はこの裏側の領域で私の先祖とも、あるいは私の前世ともおぼしき"実体なき存在"を知覚したのですが、彼はある過去の実在とおぼしきもの(彼は間違いなく覚醒者であろう)であって、なお今その内的交流を通して現在の私と共に生きているのですi
彼は私の実存と切り離されておらず、永遠の時間において生きているのです。彼共々が大本の私なのかもしれません。
しかし、このことをこの客観的現実に適応させてしまうやいなや、観念の世界の想像上のモザイクと化してしまうばかりです。
また、いつの時代にも"世界の終末、アセンションはいつ起こる"ということが喧しく取り沙汰されたりするものですが、その狂信ぶりは"O年O月にそれが起こる"という極めて客観的時間に囚われた様を示しています。
客観的時間、あたかも実体あるかのように見せかける観念に閉じこめられた精神にアセンションなど起こり得るでしょうか? こうしたことは全くもって主体的な開かれた精神にこそ、本質的な意味があるのです。
皮肉ですが、そういうものがある時、彼らの世界は終わりを告げるでしょう。その日は永久に来ないかもしれません。"目覚めたものは幸いなり"
それが如何に幻想に満ちて、バカバカしいものであろうと、我々はこの現実を生きているには違いありません。
今日も又終わりなき日常が無意味に過ぎ行くばかり...
それでも...そこに意味があろうと、なかろうと私は待ち望まなければならないのです。
この時間が、世界が、人々が分断された世界で...すべてが生ける現存につながる息吹を内に覚えながら...
そうせざるを得ないのです。見せられているから..この見たままの世界が、そのままその見せられた世界に化して行くという、声なき音信を聞いているから...
何度も触れているように、宗教やスピ界隈には、前世であるとか、来ない先のアセンションとか、確かめようのないことを無批判に迎合してしまう傾向が昔からあります。
これはあるドグマを狂信的に信じ込むことと同じように、強固な"信仰"が頭脳を支配しているためでしょう。どちらも信仰依存の表れなのです。
私は、しかしその前世、アセンションに関することも、短絡的な実在信仰に囚われることはありませんが、それ自体否定してる訳ではありません。
私自身、"人生の裏側"に踏み込んでしまった時、"それらしきこと"を垣間見たことがあるからです。
ただし、そのことを客観的事実の表明のように、"過去のいついつの時代にかくのような人物として生きていた"とか"何年後のいついつにそういうことが起こる"というように表現することは不可能だし、そうすることに意味があることとも思えないのです。
というのは、そうしたことは、この見える現実で見ていたことでなく、"裏側"へとシフトした、変容された意識状態に、異なった現実にあって接触していた、ということなのです。
短絡的にそうした言説に迎合してしまう人というのは、このことを全く理解していないのです。
借り物にすぎない他人の言葉に寄生して、思われたままの観念の世界で"見た、分かった"つもりになっているだけなのです。
まず変容された領域においては、時間というものが全く思われたものではありません。
私が現臨に捉えられる時にはいつも、世界の終末を目の当たりにしたかのようになるのですが、これが思われた時間の終焉を感じさせることなのです。
そして内側から何かが開かれるや、こんな感じになってしまいます。
「今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」(金光大神)
この言葉などは、全く目覚めの瞬間のことを端的に言い表しているようで、私に直に初めて天地の創造が始まったかのように感じられるのです。
この領域では過去、未来と思われていたことも現在に直結されるのです。(このことを今の悟り系スピのように"今、ここしかない"と言い切れるようには私には感じませんが...とにかく現在と切り離されない、ということは言えることです)
そして私はこの裏側の領域で私の先祖とも、あるいは私の前世ともおぼしき"実体なき存在"を知覚したのですが、彼はある過去の実在とおぼしきもの(彼は間違いなく覚醒者であろう)であって、なお今その内的交流を通して現在の私と共に生きているのですi
彼は私の実存と切り離されておらず、永遠の時間において生きているのです。彼共々が大本の私なのかもしれません。
しかし、このことをこの客観的現実に適応させてしまうやいなや、観念の世界の想像上のモザイクと化してしまうばかりです。
また、いつの時代にも"世界の終末、アセンションはいつ起こる"ということが喧しく取り沙汰されたりするものですが、その狂信ぶりは"O年O月にそれが起こる"という極めて客観的時間に囚われた様を示しています。
客観的時間、あたかも実体あるかのように見せかける観念に閉じこめられた精神にアセンションなど起こり得るでしょうか? こうしたことは全くもって主体的な開かれた精神にこそ、本質的な意味があるのです。
皮肉ですが、そういうものがある時、彼らの世界は終わりを告げるでしょう。その日は永久に来ないかもしれません。"目覚めたものは幸いなり"
それが如何に幻想に満ちて、バカバカしいものであろうと、我々はこの現実を生きているには違いありません。
今日も又終わりなき日常が無意味に過ぎ行くばかり...
それでも...そこに意味があろうと、なかろうと私は待ち望まなければならないのです。
この時間が、世界が、人々が分断された世界で...すべてが生ける現存につながる息吹を内に覚えながら...
そうせざるを得ないのです。見せられているから..この見たままの世界が、そのままその見せられた世界に化して行くという、声なき音信を聞いているから...