私はいつもこうして書いていて、我ながら"何とも掴みどころのない、モヤモヤ雲みたいなことを書いているなあ..."と感じています。
私はここで話題にすることはあっても、例えば自分がノンデュアリティとも、クリスチャンとも、瞑想家とも、OO主義者とも、勿論悟った人間とも言ったことがありません。
死後の世界や前世やアセンションのようなことが、有るとも無いとも言ったことがありません。
言いたくなることといったら、それらに固着した決めつけた物言いに対してなのです。
どうにも違和感を覚えてなりませぬ。だって私は雲の世界から来ている?のですから...
"精神的な道にはこれといった教えや方法論というものがあるのだろうか?"
どうやら、そうした道に関わりを深めようとしてから、そういうものを掴ませてくれないものと関わっているようなのです。
精神的な道には何もしなくていい、ということは無い訳で、私の場合ハッキリとした形、やり方がある訳じゃないけど、強いて言い表せば"祈り"と言っていいものはあります。
これは自分の意志的行為によるにもあらず、全く他動的、受動的に強いられ、為されるまま、というにもあらず...この祈りというものを異なった切り口で、より能動的なものとして表せば、"コミットメント、コミットすること"と言ったらいいでしょうか?
私は一時、意味も分からず"神にコミットします"などと言っていたものです。
(これ自体、"意識的になること、意識を向ける"と言っていることをモ少し具体的に表現しているつもりです)
大体コミットって何だ?
"結果にコミットする"? "ホントに痩せられるのかi" 何て言ってたらコミット出来ません。
この文句、意味はよく分からないが、何となく伝わるものはあります。
ちなみにコミットには"関わる"とか"ゆだねる"という意味があるそうです。
そこから主体的に関わることと、身を預ける、そうさせられるものに乗っかる、というような響きが伝わってきます。
そこにはそうさせてくれるものへの、自己への信頼があるのです。
精神的な道で、私自らは克己的になるとか、心掛けを変えるとか、マイナス感情を手放す、といったことはよう出来そうにないし、そう赴くことはあまりありません。
しかし、そうさせようとするものにコミットすることは出来ます。
何が真実で何が虚偽であるかは、自分では分からないことが多いです。
しかし、そのことを明らかにしようとするものにコミットすることは出来ます。
コミットとは又、決心、決定するということでもあります。
こうしたことが、ある面とても主体的な関わりに踏み出すということでもあり、自己を超えたものにゆだねる、託することでもあるという由縁でしょう。
それは又、人が生きているということは、見える自分だけが生きているのではなく、自分をそう在らしめているもの共々が生きている、ということが示されているのでしょう。
このことが、見たままの、限界ある自己がただちに神になるとか、悟るものと思い上がり、混同してしまうことの抑制となるのです。
もし、そのまま限界を示されることなく、そのエゴ的衝動の為されるままに置かれるならば、その大本の自己から切り離されるに至ってしまうでしょう。
部分的なものが、より有機的全体的なものに取って代わってしまった時、自体成り立たなくなってしまうからです。
コミットすることにおいて、私は真我的私の本源、見えざる導き、有機的全体的なものと一連なりのものであることを覚えられるのです。
いつもより具体的なことを書こうとしたのですが...ヤッパリ雲を掴むような話だったかもしれない...
私はここで話題にすることはあっても、例えば自分がノンデュアリティとも、クリスチャンとも、瞑想家とも、OO主義者とも、勿論悟った人間とも言ったことがありません。
死後の世界や前世やアセンションのようなことが、有るとも無いとも言ったことがありません。
言いたくなることといったら、それらに固着した決めつけた物言いに対してなのです。
どうにも違和感を覚えてなりませぬ。だって私は雲の世界から来ている?のですから...
"精神的な道にはこれといった教えや方法論というものがあるのだろうか?"
どうやら、そうした道に関わりを深めようとしてから、そういうものを掴ませてくれないものと関わっているようなのです。
精神的な道には何もしなくていい、ということは無い訳で、私の場合ハッキリとした形、やり方がある訳じゃないけど、強いて言い表せば"祈り"と言っていいものはあります。
これは自分の意志的行為によるにもあらず、全く他動的、受動的に強いられ、為されるまま、というにもあらず...この祈りというものを異なった切り口で、より能動的なものとして表せば、"コミットメント、コミットすること"と言ったらいいでしょうか?
私は一時、意味も分からず"神にコミットします"などと言っていたものです。
(これ自体、"意識的になること、意識を向ける"と言っていることをモ少し具体的に表現しているつもりです)
大体コミットって何だ?
"結果にコミットする"? "ホントに痩せられるのかi" 何て言ってたらコミット出来ません。
この文句、意味はよく分からないが、何となく伝わるものはあります。
ちなみにコミットには"関わる"とか"ゆだねる"という意味があるそうです。
そこから主体的に関わることと、身を預ける、そうさせられるものに乗っかる、というような響きが伝わってきます。
そこにはそうさせてくれるものへの、自己への信頼があるのです。
精神的な道で、私自らは克己的になるとか、心掛けを変えるとか、マイナス感情を手放す、といったことはよう出来そうにないし、そう赴くことはあまりありません。
しかし、そうさせようとするものにコミットすることは出来ます。
何が真実で何が虚偽であるかは、自分では分からないことが多いです。
しかし、そのことを明らかにしようとするものにコミットすることは出来ます。
コミットとは又、決心、決定するということでもあります。
こうしたことが、ある面とても主体的な関わりに踏み出すということでもあり、自己を超えたものにゆだねる、託することでもあるという由縁でしょう。
それは又、人が生きているということは、見える自分だけが生きているのではなく、自分をそう在らしめているもの共々が生きている、ということが示されているのでしょう。
このことが、見たままの、限界ある自己がただちに神になるとか、悟るものと思い上がり、混同してしまうことの抑制となるのです。
もし、そのまま限界を示されることなく、そのエゴ的衝動の為されるままに置かれるならば、その大本の自己から切り離されるに至ってしまうでしょう。
部分的なものが、より有機的全体的なものに取って代わってしまった時、自体成り立たなくなってしまうからです。
コミットすることにおいて、私は真我的私の本源、見えざる導き、有機的全体的なものと一連なりのものであることを覚えられるのです。
いつもより具体的なことを書こうとしたのですが...ヤッパリ雲を掴むような話だったかもしれない...