人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

消えてゆく姿と祈り

2017-11-10 17:56:19 | 祈りと瞑想
五井先生には、"消えてゆく姿"という教えがあります。
それによると、"思いというものは消えてゆくものであり、神から来ている、根元的なもののみが残る、在る"とのことです。
消えてゆく姿というものがあれば、消えてゆかないものとは、"否定出来ないもの、疑うことが出来ないもの"、ということになるでしょう。
これは神的なハタラキが意識に浸透すると、本当に思い、思考というものが消えるというか、超えられてしまうのです。
五井先生が言うには、常に思いを神に向け、満たしておくことが大切なことで、それにはたゆまず"世界平和の祈り"をすることである、とのことです。
しかし、教えられた通り行じたとしても、全ての人がそうして本心が開かれるか、ということは極めて疑問です。
数十年携わっている人でも、それで確信を得ているようでもなく、かえって五井先生の道から外れ、消えてゆく姿としか思えない、真偽の確かめようのない、オカルト的教説に囚われ続けている者も見受けられます。
もっとも私などはとっくの昔に(形の上では)五井先生から離れてしまったのですが、いやむしろそのことを契機として、知らず知らずに根本的なところでは先生と同調してたか、その示された道を歩まされていたようなのです。
それは端的に言うと、祈りというか、上記したように神に思いを向けていたら、見えざるガイダンスに導かれ、内なるものが開かれる、ということです。
祈りと言っても、それは決められた言葉を祈ることが全てと思ったらトンデモありません。
如何なる道でもそうであるように、意識の有り様ということが極めて重要なのです。
それによってその道がどのように展開して行くか決まると言っても過言ではないでしょう。
例えば..."そこに本当に真摯に、神とつながりたいという内的な要求があるのか?
表層では直接そのこととつながらない、特定の教団や教師、教団主導のドグマ、修行方法などに思いが囚われてはいないか...
そもそも、そういうものこそが消えてゆく姿ということではないのか...
特定の何かに意識が囚われていると、こういうことが落とし穴になってはいないだろうか..."
これでは根本的な観照にはならないではありませんか?
どこかでおざなりの、観念的なもの、惰性的なものに流れてしまうのではないでしょうか?
そして本質的でないものへのこうした思いの向けようから、全く魂の平安とは関わらない、オカルト教説に囚われてしまうのでしょう。
真摯な内側からの神への希求のあるところ、形としての祈り以前の、素のままの、内なる祈りーこれ自体が魂の希求ですーがあるものです。
ここから神的ハタラキ、恩寵の光が臨む契機が生まれるのです。
それが意識に浸透し始めると、やがて"疑うことの出来ない、消えてゆかないもの"が如何なるものかが示されるでしょう。
これは消えてゆく姿と祈りというものに二段構えのものがなく、一つの消息なのです。
こちらの方法といったものでなく、どこまでも見えざる導きに依るものなのです。
又、それは、どこまでも自己と切り離せないものだということが分かります。
教団やドグマ、方法といった自己と二つになってしまうようなものではないのです。
このように考えると、教団本位であるとか、相対的有り様では、中々こうした事態には導かれないと思われます。
それは実に個的なものであり、又普遍的なものとも言えるでしょう。このことを実感するのはあなた以外の誰でもない、直接的感受によるものであり、又それは、あらゆる宗教、思想を超えて如何なる精神的道にも通じているものでしょう。
ここから、特定の宗派、教えから離れた自由な在り方が表れるのも自然な流れと言わざるを得ません。
"消えてゆく姿で世界平和の祈り"という道は、形に囚われなければ生きた道が開かれるかもしれません。それは相対性に囚われない一人一人の開かれた精神から生まれるのでしょう。
それで誰にもが本心が開かれるか、どうかは何とも言えません。
しかし、如何に万人に開かれたものだろうと、当人にその気が無ければどうしようもありません。意識的になるとはそういうことなのですから...

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする