真我、本当の私とは?
誰も答えられないでしょう。私が何であるか分からないんだから、世の中訳が分からないのも当たり前ですよね。
スピ界隈でよく言われているのは、物質的肉体とされているものが自分ではない、目に見えないものこそが自分である、というものです。
肉体に囚われたものを個我と言ったりするのですが、では自分とは精神のこと、霊的な魂みたいなもののことでしょうか?
"精神こそは、魂こそは自分"という思いこそが個我なのではないでしょうか?
又、ある人は"真我とは、純粋意識だ"と言います。
純粋意識はなるほど諸々に分離する思いを超えた、根底的なものには違いないですが、そう言いきってしまったらメシを食ったり、出すものは出すという真実もどっかへ行ってしまいます。
こう考えると、本当の私とは"これこれである"、という言い方など出来ないということが知られるでしょう。
逆に言えば、"これこれでない"とも言えないのです。
私は"肉体である"ことに問題があるのではなく、"肉体のみ"と思いこむことが問題なのではないでしょうか?
より問題を深く、複雑にしているのは肉体自体にあるのではなく、すべてを決定事項にしようとする精神にあると言えるでしょう。
物質的肉体次元を超えた、より高尚なる自己に肖ろうと決め込もうとする思念...皮肉なことにそうした思念が強固なものになるにつれ、精神は物質的凝固性を帯びたものになってしまうのです。
こうなってしまえば、唯物論も精神論も二元論も非二元論もみな、どっちが上でも下もなく、何ものかに囚われ、なりたがらずにおれない個我的思凝に取り込まれるばかりです。
かくして宗教、スピ界隈では、"全てはこうこうである"、"究極の真実はこれっきゃない"といった決めつけた、偏った言説で溢れかえった様相を呈しているようです。
我々の我性は、何故かくも何ものかに囚われ、真実を知っている真我らしきものになりたがろうとするのかと言えば、 自己というものがかように何かに帰せられないもの、掴めないものに他ならないからでしょう。
そしてこうした思いに駆られるのは、"本当の自己というものが分からなければ、全てのことが立ち行かなくなる、成り立たなくなる"という我々に宿命的な意識が根付いているためでしょう。
それが如何なる事態に導かれるかはともかく、人間は各々の有り様において真我実現に赴かざるを得ない生き物なのでしょう。
そこにいわく言い難い悲劇性というものがあります。
自己とは、肉体、精神、魂、統合的有機体的なもの...その等々のいずれかとは言えないが、いずれでもあるようなものでしょうか?
それらには"私は在る"という、ある純粋意識的なものが通じ、ハタライているとはいえ、それだけでは満たされないものを感じています。
神的なものとしか言い得ない、生きた統合的なもの、愛、平安そのもの...
この表現も仮のものにすぎませんが、このような全てのものにあって、一なるものが私というものなのでしょう。
人生に意味があるのか、どうかは個我的なものからは分かりません。
人生も世界も避けられない運命に投げ出されているように思えます。
個我からは、人生は何と苦難に満ちたものに映ることでしょう。(だからと言って、個我自体は否定さるべきものでないが)
生きることは苦しみの連続じゃありませんかi 一体何のために?
本当の私とは?、生きる意味とは?
この私からは答えは見つけられません。"生きるのに意味がない、苦しい、死にたい" だけが私でも人生でもないのです。
ただ、しばしば眠りから覚めた時にこう感じます。それはこのチッポケな自分からは出てこないものです。
"そうだったんだi" "生かされているだけで幸福なんだ、本当の自分が何かは分からないけど、それはすでにここに在る"
誰も答えられないでしょう。私が何であるか分からないんだから、世の中訳が分からないのも当たり前ですよね。
スピ界隈でよく言われているのは、物質的肉体とされているものが自分ではない、目に見えないものこそが自分である、というものです。
肉体に囚われたものを個我と言ったりするのですが、では自分とは精神のこと、霊的な魂みたいなもののことでしょうか?
"精神こそは、魂こそは自分"という思いこそが個我なのではないでしょうか?
又、ある人は"真我とは、純粋意識だ"と言います。
純粋意識はなるほど諸々に分離する思いを超えた、根底的なものには違いないですが、そう言いきってしまったらメシを食ったり、出すものは出すという真実もどっかへ行ってしまいます。
こう考えると、本当の私とは"これこれである"、という言い方など出来ないということが知られるでしょう。
逆に言えば、"これこれでない"とも言えないのです。
私は"肉体である"ことに問題があるのではなく、"肉体のみ"と思いこむことが問題なのではないでしょうか?
より問題を深く、複雑にしているのは肉体自体にあるのではなく、すべてを決定事項にしようとする精神にあると言えるでしょう。
物質的肉体次元を超えた、より高尚なる自己に肖ろうと決め込もうとする思念...皮肉なことにそうした思念が強固なものになるにつれ、精神は物質的凝固性を帯びたものになってしまうのです。
こうなってしまえば、唯物論も精神論も二元論も非二元論もみな、どっちが上でも下もなく、何ものかに囚われ、なりたがらずにおれない個我的思凝に取り込まれるばかりです。
かくして宗教、スピ界隈では、"全てはこうこうである"、"究極の真実はこれっきゃない"といった決めつけた、偏った言説で溢れかえった様相を呈しているようです。
我々の我性は、何故かくも何ものかに囚われ、真実を知っている真我らしきものになりたがろうとするのかと言えば、 自己というものがかように何かに帰せられないもの、掴めないものに他ならないからでしょう。
そしてこうした思いに駆られるのは、"本当の自己というものが分からなければ、全てのことが立ち行かなくなる、成り立たなくなる"という我々に宿命的な意識が根付いているためでしょう。
それが如何なる事態に導かれるかはともかく、人間は各々の有り様において真我実現に赴かざるを得ない生き物なのでしょう。
そこにいわく言い難い悲劇性というものがあります。
自己とは、肉体、精神、魂、統合的有機体的なもの...その等々のいずれかとは言えないが、いずれでもあるようなものでしょうか?
それらには"私は在る"という、ある純粋意識的なものが通じ、ハタライているとはいえ、それだけでは満たされないものを感じています。
神的なものとしか言い得ない、生きた統合的なもの、愛、平安そのもの...
この表現も仮のものにすぎませんが、このような全てのものにあって、一なるものが私というものなのでしょう。
人生に意味があるのか、どうかは個我的なものからは分かりません。
人生も世界も避けられない運命に投げ出されているように思えます。
個我からは、人生は何と苦難に満ちたものに映ることでしょう。(だからと言って、個我自体は否定さるべきものでないが)
生きることは苦しみの連続じゃありませんかi 一体何のために?
本当の私とは?、生きる意味とは?
この私からは答えは見つけられません。"生きるのに意味がない、苦しい、死にたい" だけが私でも人生でもないのです。
ただ、しばしば眠りから覚めた時にこう感じます。それはこのチッポケな自分からは出てこないものです。
"そうだったんだi" "生かされているだけで幸福なんだ、本当の自分が何かは分からないけど、それはすでにここに在る"