キリスト教には、「聖霊派」とか「ペンテコステ派」などと呼ばれる一群があります。
これは、主としてプロテスタントの中から発展してきたものですが、カソリックでも近年「カリスマ刷新」などとして知られており、無教会派から現れたものでも、私には馴染みのある「原始福音」(手島郁郎創始)や「キリスト召団」(小池辰雄創始)と呼ばれるグループがあるのです。
これらには、その集会の在り方に一様にある特異とも言える、例えば"ドタンバタン"と激しく身体を動かすとか、あるいはぶっ倒れるとか、"ワア、ワア"泣き叫んだり、所謂「異言」が、集まる者の口からほとばしる、といった現象が見られ、他からもそういうイメージで見られているのです。
これについてある人は(私は実際にそういう声を聞きましたが)、「そんなのは、サクラに決まっているじゃないかi」と決めつけた批評をしたりするのですが、それはそうした集会に行ったことも、見たこともない人間の見解と言わねばなりません。
一体いつ、どこであの自然発生としか思えないような、超常識?あるいは非常識?的なパフォーマンスの訓練、練習をやっているのかと、問いたいですi
あるいは「あれは悪霊にたぶらかされているんだi」と見ている者も居るでしょう。私は霊感者でないので分かりませんが、そういうこともあるかもしれません。
しかし、これはすべての道について言えることでしょうが、すべてを一様に片付けてしまうことは出来ないでしょう。
サクラ云々に関して、私は実見してませんが、知人からもある書物からも、ある集会では「ワザとらしいことこの上なかった」という報告もあるのです。
又あまり好ましくない事態に見舞われることも無いとは言えないことでしょう。
何事においても意識の有り様が極めて重要なことで、それ次第で、如何様にも展開されるものでしょう。
実のところ、私自身は、上記したようなイメージで語られる集会に、参じたことはありますが、正直馴染めませんでしたし、その熱烈な波に飲まれて"ワア、ギャア、ポロポロ ..."ということになったことも無かったのです。私は精々"ウー、ウーッ"という程度で済んだ?のです。
一時期、キリスト召団の大阪集会に通っていたことがありますが、ここの代表者U先生って人がもう、全召団きってのそうした方面のパワーに恵まれた人?で、集会では「何をエエカッコ、さらしとんじゃあi」と"ワア、ワア"とパワー全開の有り様を奨励していた(集会員は若い人が多かった)ので、私は随分肩身の狭い思いをさせられたものです。(突然、私が集会に遠ざかってしまったのは、ずっと申し訳なく思ってます)
小池先生は時に"ワア、ワア"を奨励したりもしましたが、"聖霊の受け様はそれぞれである"ことをいつも強調していました。
聖霊を強調する集会に付きまとうイメージにトラワレる必要は無いのです。
私は静かに深ーく浸透してくるハタラキに反応することが多いのです。
最も肝心なことはこっちのパワーがどうのこうの、ココロ、思いがどうのこうのではないi
受けなければなりませんi 受け入れることですi そうでなければ何にもなりませんi
そうでなきゃ、勝手に"ワア、ワア"でも、翻訳不可能な言葉を口走るなり、ヘソを見つめて唸っているなりしてたらいいのですi
又、"聖霊を受けた印として奇跡的なことが起きなければならない"、とするのなら、聖霊を受けることから奇跡信仰、ご利益信仰に変じてしまうでしょう。
聖霊を受けた結果として、そうしたことが起きたのなら受け入れるしかないでしょう。トラワレずに...
トラワレたところから付随的なことが一人歩きし始め、本質的なことからズレてくるのです。
"聖霊か、悪霊か見極めなければならない"ということも一理あることですが、自分で見極めようとしているうちは、聖霊を受ける契機は多分訪れないでしょう。
そうした思いを超えて切り込んでくるのが、聖霊なのだから...
かく言う私は、キリスト者でもなく、聖霊が何かということなど知りません。
ただ、それは私がキリスト教徒だろうと、異教徒だろうと、神を信じようと、信じまいと自分の思い、力を超えて喜ばしいことをもたらすハタラキという他ありません。
これは、主としてプロテスタントの中から発展してきたものですが、カソリックでも近年「カリスマ刷新」などとして知られており、無教会派から現れたものでも、私には馴染みのある「原始福音」(手島郁郎創始)や「キリスト召団」(小池辰雄創始)と呼ばれるグループがあるのです。
これらには、その集会の在り方に一様にある特異とも言える、例えば"ドタンバタン"と激しく身体を動かすとか、あるいはぶっ倒れるとか、"ワア、ワア"泣き叫んだり、所謂「異言」が、集まる者の口からほとばしる、といった現象が見られ、他からもそういうイメージで見られているのです。
これについてある人は(私は実際にそういう声を聞きましたが)、「そんなのは、サクラに決まっているじゃないかi」と決めつけた批評をしたりするのですが、それはそうした集会に行ったことも、見たこともない人間の見解と言わねばなりません。
一体いつ、どこであの自然発生としか思えないような、超常識?あるいは非常識?的なパフォーマンスの訓練、練習をやっているのかと、問いたいですi
あるいは「あれは悪霊にたぶらかされているんだi」と見ている者も居るでしょう。私は霊感者でないので分かりませんが、そういうこともあるかもしれません。
しかし、これはすべての道について言えることでしょうが、すべてを一様に片付けてしまうことは出来ないでしょう。
サクラ云々に関して、私は実見してませんが、知人からもある書物からも、ある集会では「ワザとらしいことこの上なかった」という報告もあるのです。
又あまり好ましくない事態に見舞われることも無いとは言えないことでしょう。
何事においても意識の有り様が極めて重要なことで、それ次第で、如何様にも展開されるものでしょう。
実のところ、私自身は、上記したようなイメージで語られる集会に、参じたことはありますが、正直馴染めませんでしたし、その熱烈な波に飲まれて"ワア、ギャア、ポロポロ ..."ということになったことも無かったのです。私は精々"ウー、ウーッ"という程度で済んだ?のです。
一時期、キリスト召団の大阪集会に通っていたことがありますが、ここの代表者U先生って人がもう、全召団きってのそうした方面のパワーに恵まれた人?で、集会では「何をエエカッコ、さらしとんじゃあi」と"ワア、ワア"とパワー全開の有り様を奨励していた(集会員は若い人が多かった)ので、私は随分肩身の狭い思いをさせられたものです。(突然、私が集会に遠ざかってしまったのは、ずっと申し訳なく思ってます)
小池先生は時に"ワア、ワア"を奨励したりもしましたが、"聖霊の受け様はそれぞれである"ことをいつも強調していました。
聖霊を強調する集会に付きまとうイメージにトラワレる必要は無いのです。
私は静かに深ーく浸透してくるハタラキに反応することが多いのです。
最も肝心なことはこっちのパワーがどうのこうの、ココロ、思いがどうのこうのではないi
受けなければなりませんi 受け入れることですi そうでなければ何にもなりませんi
そうでなきゃ、勝手に"ワア、ワア"でも、翻訳不可能な言葉を口走るなり、ヘソを見つめて唸っているなりしてたらいいのですi
又、"聖霊を受けた印として奇跡的なことが起きなければならない"、とするのなら、聖霊を受けることから奇跡信仰、ご利益信仰に変じてしまうでしょう。
聖霊を受けた結果として、そうしたことが起きたのなら受け入れるしかないでしょう。トラワレずに...
トラワレたところから付随的なことが一人歩きし始め、本質的なことからズレてくるのです。
"聖霊か、悪霊か見極めなければならない"ということも一理あることですが、自分で見極めようとしているうちは、聖霊を受ける契機は多分訪れないでしょう。
そうした思いを超えて切り込んでくるのが、聖霊なのだから...
かく言う私は、キリスト者でもなく、聖霊が何かということなど知りません。
ただ、それは私がキリスト教徒だろうと、異教徒だろうと、神を信じようと、信じまいと自分の思い、力を超えて喜ばしいことをもたらすハタラキという他ありません。